阿部嘉昭『頬杖のつきかた』(2) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

阿部嘉昭『頬杖のつきかた』(2)(思潮社、2009年09月25日発行)

 視覚の詩人・阿部嘉昭という印象は「ス/ラッシュ」の章(?)では、もっと激しくなる。「想/行」「王/答」「灰/憶」というようなタイトルの作品がつづくが、どのことばも別のことばを連想させる。「黙/精」「嘉/膿」「悲/膚」というような、肉体と関係することばがでてくるものにタイトルの魅力を感じる。そこには、「記憶」という「過去」が必然的に紛れ込む。
 これは、たとえば芝居(映画)で言えば、役を演じる役者の「存在感」のようなものである。芝居は、ある時間を描くが、その時間の背後には、「過去」がある。その「過去」を自然に感じさせる役者の肉体--そういうものが私は好きだが、その「過去」を自然に感じさせる肉体、その肉体には、ここには描かれていないけれどちゃんとした「過去」があると感じさせてくれる肉体を、私は「存在感」のある肉体と呼んでいる。
 役者それぞれが「過去」をもっているように、どんなことばにも「過去」がある。「記憶」がある。いま、ここにはないものを、いま、ここに呼び込む力がある。
 ふたつのことばが出会い、わざと違った文字で書かれるとき、そこに文字そのものがもっている「過去」が噴出してくる。それは「音」が連想させる「意味」を否定し、破壊する。その運動のなかに、阿部は詩を見ていることになる。
 先にあげたタイトルのなかでは、私は「嘉/膿」というタイトルが一番好きだ。「嘉」は「よみする」。ほめたたえる。膿という、いわば肉体にとって否定的なものとほめたたえるという肯定的なものがぶつかりあう瞬間--それが刺激的だ。
 「悲/膚」では「皮膚」(肌)のセンチメンタルがそのままでてきそうで、あまりおもしろくない。
 「黙/精」は「黙/性」だと意味が強くなりすぎるかな?
 いずれにしろ、そんなふうに思うとき、私は「音」ではなく、文字に反応している。文字の記憶--視覚の記憶。「音」を視覚の記憶が突き破り、その破壊のなかで精神が動く。新しい動きをする。つまり、詩に触れる。
 タイトルの後に展開される行よりも先に、タイトルだけで「詩」に触れる。
 これは、しかし、いいことなのか、どうか。

 「嘉/膿」は、

恋族の走りゆくさまは あかときの禾。
そこを受胎に変えて爾後もかえりみない。
申そう、牝の背後からなされる鹿恋には、
誰もが当事者を代位して恥じない欠如がある。

 と始まる。4行読んで、「申そう」、いや「妄想」がはじまる。性と膿(腐敗)の関係が始まるのだ、と。性と死。死につきものの、腐敗。化膿。そして、詩のなかにある「可能」性。「恋」というものは、いつでもそういうものを夢見るものだから。

女の背後--肉までめくられた切断面が鈴なり。
歴史への怖気とそうして神話にも適合される。

 ということばも、すけべな私を妄想に駆り立てる。
 2連目は、1連目から飛躍し、「死」への言及からはじまる。

二台の戦車が 草原で膠着しきった笑い話。
「動けば殺されてしまう」この予期とは何か。

 生と死。そういうものを考える。でも、恋はどこに?という疑問が残る。 個人的な「恋」が、それこそ「歴史」のなかに消されてしまった気持ちになる。
 3連目で、

アカシア林から不意に消滅した蜜蜂なら。
われわれのひらく、扉全体の無効につなぐ。

 個人的なものから「われわれ」への変化。私には、ちょっと、ことばの動きが追えなくなる。「無効」が「向こう」であったなら、などと思いながら。
 そして、3連目の5行目。

翅と肢との同時性の不/可能が蚤を凝縮し

 の「可能」ということばに出会う。スラッシュの位置が私には気になる。「同時/性」、そして「不可/能」ということばを考えたくなる。
 文字の衝突による意味の否定、視覚の記憶による意味の破壊が、意外と「弱い」のではないか、と思ってしまう。「視覚」が「肉体」になりきれず、「頭」のなかでの操作なのかもしれない、と少し疑問に思ってしまう。
 特に、詩の最後。

伝説をつらぬいた神性の化/膿を己れにかんずる。
けっきょくは怠惰が私をつくって--嘉/膿する。

 「嘉/膿」が、最初の私の予想通り「嘉する」「膿」になってしまったのでは、ちょっと残念なのである。タイトルが詩を先取りしてしまっていて、詩がタイトルを超えていかない。そういう不満が残る。
 こういう詩はむずかしいのだ、と思った。

 音と文字。聴覚と視覚。その衝突と、たがいの破壊。そこにたしかに詩は存在すると思うが、それが「頭」を刺戟しているあいだは、まだ「弱い」という印象が残ってしまう。もっと、ぐちゃぐちゃに溶け合ってしまって、別の聴覚、視覚が誕生するまで書かなければならないのかもしれない。

 悪口ばかり書いてしまったが……。ゴッホ兄弟を描いた「都/腐」は「チーズ」ではじまる。「チーズ」は「豆腐」に似ていると思うのは私だけかもしれないけれど、「都/腐」から「豆腐」を思い浮かべていた私は、2連目に、

精液が塗/布されて屈折率がいつも変わる。画も女の腹も。

 という行に、気持ちのよい「裏切り」を感じた。詩を読んでいて一番うれしいのは、「え、そんなふうにことばが動いてしまうのかい」と「裏切られる」瞬間である。
 「塗布」のなかには「都」も「腐」も登場しない。視覚が記憶とならない。視覚の存在感が否定され、「音」のなかから「音」が噴出してきて、「都/腐」を破壊する。これはいいなあ。とても、いいなあ。
 そして、「精液が塗(/)布されて屈折率がいつも変わる。(画も)女の腹も。」というのが、すけべでいいなあ。妊娠は、女の腹の屈折率(曲線?)の変化か。なんと「腐」りきった(あるいは腐敗を拒絶した)、「都」会ならではなの発想ではないか。このただれた(?)情欲の流動。
 3連目もとても好きだ。

気づかれただろうが この叙述は私の死後のことだ。
諸平面の配剤に費やしながら稀に藤花の垂れるのも見た。
すたあだすと、その言葉を危うく口許で呑む。そのすりる。
気づかれるだろうが この叙述は私の詩語のことだ、
一切は種まく人の模写からはじめられた。その過去が煙る。
二人寄れば藁だという気持は 相手が婦に代わってもある。
耳を削って頭部の対象を呪うなんて。一本の煙突が輝く。

 「婦」がたとえば「都/婦」であったらな、というと野暮になるだろうけれど、ああ、せめて、「頭部」が「とふ」という「音」であったなら、と思わずにはいられない。豆腐の角に頭をぶつけて死んじまえ、と阿部に叱られるだろうけれど。



精解サブカルチャー講義
阿部 嘉昭
河出書房新社

このアイテムの詳細を見る