再び「月の光」について。きのう書いたことの繰り返しになるかもしれない。けれども、もう一度書いておきたい。
わたしはけだものかもしれない
くらいめをしてかんがえながら
おんなやさけをおもっている
しにたくないとねがっている
わたしはけだものかもしれない
いそじもなかばすぎこしてきた
ひとのかおしてすましていても
はなさきにえさぶらさげれば
たちまちしっぽがおきてくる
べんかいしようとしたこえが
きいきいめすをもとめている
わたしはけだものかもしれない
くらいめをしてかんがえこむと
みみもとで
だれかささやきかけるこえ
それはこえだかかささやきだか
かぜのおとかもしれないけれど
それはあんまりやさしくて
あんまりあんまりくるしくて
たえられなくて
おおごえで
だれかよびつづけていたような
それはだれだかだれのかげだか
つきのひかりかもしれないけれど
私がこの詩にひかれるのは「しにたくないとねがっている」という行と、「それはあんまりやさしくて/あんまりあんまりくるしくて」という行である。
「だれか」が見つめている、「だれか」に見守られている--というのは池井の詩に頻繁に登場する感覚である。その「だれか」は簡単にいってしまえば「詩の神」である。そして、その「だれか」はいままで「やさしく」見守ってくれていた、というのが私の印象である。
池井は、この詩では「くるしくて」という感覚に出会っている。
「やさしさ」と「くるしさ」。この二つにはとても大きな違いがある。
「やさしさ」は池井をつつんでくる。「やさしさ」に触れるとき、池井は「神」につつまれる。至福である。
「くるしさ」とどうか。まず、池井をつつみこみはしない。
他人の苦しみは自分の苦しみとは違う。
人間はたいへんわがままな生き物である。他人にやさしくされると(他人のやさしさに触れると)とてもいい気持ちになる。自分が「やさしい」のではなく、他人が私に対してやさしい。そのことが、ふしぎなことに(?)、幸せな気持ちにさせる。私が「やさしく」なるわけではないのだが、きもちがやわらぐ。自分が受け入れられていると感じ、安心するのかもしれない。
ところが、「くるしさ」の場合は別である。「痛さ」も同じである。
だれかがどれだけ苦しんでいようと、あるいは痛みを訴えていようと、私自身は苦しくはない。痛くはない。
けれども、またまた、ふしぎなことに、他人の苦しみ、痛みというものを、それが自分の苦しみや、痛みではないにもかかわらず、「くるしい」「いたい」と感じ取ることが人間にはできる。
ことばで訴えられたときはもちろんわかるが、そうではなく、ことばを発することもできずに、道ばたでうずくまっている人間がいるとする。そういう人間をみると、あ、このひとは「苦しんでいる」「痛み」にうめいている、と理解することができる。
自分に、苦しんだり、痛みを感じた経験があるからかもしれないが、この、自分のものではない苦しみ、痛みを感じる力というのは不思議なものだと私は思う。
人間には、くるしみやいたみに対し、共感し、反応する力があるのだ。
自分では体験しないのに、他人とおして知る何か。
その最大(?)のものは死である。
人間は死ぬ。そのことを私たちはだれもが知っている。けれども、だれひとりとして自分自身の死を知らない。他人の死を目撃し、死とはこういうものだとかってに考えているだけだ。
自分の外にあるもの--死。それが、やがて自分にもやってくるかもしれない、かならずやってくる、と感じ(知って)、私たちは生きているだけである。
この死に対する感覚(認識)と、池井がこの詩で書いている「くるしみ」がどこかで通じているように私には感じられるのである。
他人のなかにある「くるしみ」。それをとおして、池井は自分のなかにも、それにつながるものがある、と感じている。そして、その「つながり」の「道」は「けだもの」なのだ。
「やさしさ」のように池井をつつみこむことはない。
池井から離れていて、なおかつ、池井の「にくたい」の奥へささやきかける。「にくたい」の奥を揺さぶる。
「くるしみ」というものがあるのだ。
ひとりひとりの「くるしみ」はけっして他人に共有されるようなものではない。だれかの代わりに池井がくるしむというようなことは、ことばの上では可能だが、実際は、そういう代替は不可能である。池井がくるしめば、そのぶんだれかのくるしみが消えるわけではない。池井の肉体が痛めば、だれかの痛みが消えるわけではない。
それでも、感じてしまう。共感(?)してしまう。
ほんとうは自分では体験していないくるしみ。いたみ。そういうものがあり、そして、そういうものは「にくたい」の奥を揺さぶる。そのゆさぶりのなかで、池井は、死を知るように(死を感じるように)、くるしみを感じるのだ。
それは、池井を超越している何かだ。
池井は、いままで、自分を超越する「やさしさ」について書いて来た。けれども、いま、これから、自分を超越する「くるしさ」について書こうとしている。
それは、いわば、死を書くことなのだ。
自分で体験してしまったら絶対書くことができないもの。
それを書こうとしている。
「死」を中心にして書き直そう。
死を書くためには死を体験しなければならない。けれども、死んでしまったら、人間は自分の体験を書くことはできない。
これは大きな矛盾である。
けれども、池井は、そういう矛盾を書きたいのである。だからこそ「しにたくない」と書かざるを得ない。
だれだって、くるしみたくない。痛みなど、それがどんなものであれ、経験したくない。
けれど、なにかが、だれかが、池井に、そういう「くるしみ」を書かせようとしている。「詩の神様」が書かせようとしている。そして、その「くるしみ」を書くために、「けだもの」の道を歩け、と言っている。けだものになって、くるしんで、それだけでは不十分で、池井の体験を超越した「くるしみ」に触れろ、と「詩の神様」が命令している。
その声に脅えながら、同時に、酔いしれながら、池井は「しにたくない」と書いている。
私が感じたことは、そういことである。
いままで、私は池井の詩は嫌いだ、大嫌いだ、ぜんぜんおもしろくないと言い続けてきた。そういうふうに言うことができたのは、私がどんなに嫌いだ、つまらない、ぜんぜんだめだと否定しても、その詩は壊れないとわかっているからだ。嫌いだ、嫌いだ、嫌いだ、と私が言い張っても、最後に、でも好きだよと言えば、すぐに「和解」できると知っているからだ。
ようするに、私は、池井の詩に甘えて感想を書いていた。こどもが母親に甘えるようにして、甘えて感想を書いていた。
けれど、これからはどうなるだろう。
私は、いままでと違って、池井の詩はすごい。すばらしい。傑作だ、といいつづけることになるのだと思う。そして、そういいながら、どこかで「困った、池井の詩に触れると苦しくて苦しくてしようがない。なぜ嫌いと言ってしまえないのだろう、関係ないと言ってしまえないのだろう」と悩みつづけることになるのだと思う。
池井の書こうとしている「けだもの」の「くるしみ」。そして、その「くるしみ」のなかにある「血」のあたたかさ。それに対して、関係ない、とは絶対に言えないことはわかっている。死が、人間にとって関係ない、と言えないのと同じことだ。
どうすれば、いいのだろう。
きっと、これからは、池井が、私にとってたったひとりの詩人になるのだろう。これまでも私にとって詩人といえば池井しかいなかったが、これからは、その存在の仕方がもっと全体的になる。
そんなことを感じた。
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