有田忠郎『光は灰のように』(書肆山田、2009年09月15日発行) | 詩はどこにあるか

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 「そのひとは」は多田智満子を追悼した詩である。その書き出し。

風が大きな野原を渡るように
草の背を乗り継いで海の方へ
あるいは長い川のある大陸の方へ
淡々と渡っていった
永遠の夏を宙吊りにして

 5行目の「宙吊り」とは何か。方向が決定されていない、ということだ。3行目の「あるいは」が、そのことを語っている。海と大陸では方向が違う。違うけれど、それは「等価」である。それが「宙吊り」ということだ。有田から見たとき、多田智満子は、海と大陸を等価、同じものと見ている詩人であった。
 そして、その「等価」というのは、それがどこであろうが、そこで出会ったものとことばは自由に出会う、ということでもある。ことばは、何にでもなりうる。海の沈黙にも、大陸のざわめきにも。
 3行目の「あるいは」と2、3行目の内容は、「宙吊り」の方向が、東西南北に等価であることを書いているが、有田の感じていた(多田の意識していた)方向は東西南北という地理上の方向だけではないかもしれない。
 3連目。

死は生と同じく
あなたの限りない旅の途中の
ひとつの入り口 そして出口だった

 「入り口」と「出口」は「海」と「大陸」よりもかけ離れている。そして、そのふたつを結ぶことばは、ここでは「あるいは」ではなく「そして」である。「そして」は「あるいは」よりも、いっそう、「等価」であることを印象づける。
 「入り口」であるか「出口」であるかを決めるのは詩人なのだ。
 詩人が「入り口」と書けば「入り口」、「出口」と書けば「出口」になる。
 詩人のことばは世界を独自に決定する。

 ことばにも世界にも「来歴」というものがある。一般的には、世界とことばは、そういう「来歴」にしたがって描写される。
 けれども詩人は、その「来歴」にしたがわない。「来歴」から自由である。
 これは別のことばで言えば、詩人は、ことばを「来歴」から解放し、自由にするということでもある。いままでつかわれていたことばとは違った「意味」(感情)でことばをつかい、それまでの決まりきったつかい方を超越する。そして、その超越によって、世界そのものを新しく再生させる。
 このときの出発点が「宙吊り」である。
 すべての「来歴」を拒絶し、あらゆる方向に、東西南北だけではなく、天と地、生と死の方向にも開かれた(どちらにも行ける)状態が「宙吊り」である。自由から出発し、いっそう自由になる。
 詩のことばは、自由のためにある。

 有田は多田のことばに、そういう「力」を見ていた。そして、その力を「永遠の夏」、エネルギーに満ちあふれたまばゆいものと感じていたということだ。


光は灰のように
有田 忠郎
書肆山田

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