異質なものの出会い、「俗」の乱入。それは、西脇の乱調の美学によるものだろう。乱調というのは、意識の脱臼だ。脱臼された世界--そこでは、ものがものとして存在する。ことばとものとが直接出会う。つまり、ことばが、ある意識によって統合された状態ではなく、意識が解体された状態で、独立して動く。
それは、あたらしいことばの運動の可能性でもある。巨大な哲学(?)を構築する動きをとらないので、その運動は、可能性という視点からはとらえにくいが、それは、私たちに(私だけかもしれないが)、そういう世界を構築する視点が欠けているからにすぎない。すべての構築は、解体をしないことにははじまらないのだから。
「アタランタのカリドン」の、ことばの不思議な出会い。
深沢のおかみさん
一生色ざめた桃色の腰巻きを
して狼のようにうそぶく
その頬骨のために
ピカソの作つた皿をあげる
雪女(ゆきおんな)の庭に春が来る
生きていた時紫のタビをはいた
女にあげる
あらびあ語に訳した伊勢物語を
「色ざめた桃色の腰巻き」がいちばん魅力的だが、「頬骨のために/ピカソの作つた皿をあげる」の「頬骨」と「ピカソの皿」の取り合わせが、なんともいえず、「頬骨」を明るくする。強烈にする。「あらびあ語」と「伊勢物語」も、とてもおもしろい。
こうした取り合わせを、私は「乱調」、あるいは「脱臼」と呼んでいるが、西脇自身は、別のことばをつかっている。その「西脇用語」の出てくる部分。
ピカソ人は
皿の中に少年を発見
少年の中に皿を発見
野ばらの中に人間
人間の中に野ばらを発見
野ばらの愛は
人間の中の野ばらの情感
野ばらとしての人間
人間としての野ばら
生命が野ばらと人間とに分裂した
がまだその記憶がにじんでいる
野ばらと人間の結婚
この生垣をのぞく
女の庭
「取り合わせ」を西脇は「結婚」という。(フランス語で、料理と取り合わせの妙を「マリアージュ」というのに似ている。)そして、「脱臼」(解体)は「分裂」ということになるのだが、そのことばよりも重要なのは「記憶がにじんでいる」である。
世界を解体する--そのとき、世界の存在が、ものが、もの自身が、孤立するのだが、その孤立の中に、人間が、そのものと一体だったころの「記憶がにじんでいる」。「記憶がにじんでいる」からこそ、解体した世界のなかで、そのものが、人間に直接触れてくる。他のものをおしのけて、たとえば「野ばら」が。野生のいのちが。
そして、この「記憶がにじんでいる」感じが「淋しい」である。
詩は、「もの」ににじんでいる「記憶」の発見--「もの」から人間のにじんでいる記憶を引き出すことである。
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