安水稔和「棒」は入院生活のことでも書いているのだろうか。病気のときの(たぶん)不安が書かれている。
棒がある
棒をもつ
棒がわたし
わたしが棒
倒さないように
倒れないように
そっと
そおっと。
棒につかまって立つ。そのとき私は棒になる。棒と一体になる。最終連の「そっと/そおっと。」という似たことば、けれども違うことばの繰り返し。繰り返しのなかに、しずかにまぎれこんだ「お」の音。「お」を意識することで、動きがていねいになる。
ていねい、とは意識することなのだ。
ここには、ていねいに生きる意識が書かれている。入院して、いきることにとって「ていねい」がどれだけたいせつであるかを感じている詩である。
「袋」という作品。
ふくろがある
わたしもふくろである。
ふくろにふくろが繋がる
手首と管で繋がる。
こころのどこかと
しっかり。
ふくろを意識する
ふくろであるわたしを意識する。
こころのどこかで
ぼんやりと。
ふくろがある
わたしもふくろである。
「ふくろ」は点滴の袋かもしれない。そうすると「棒」は点滴をつるした棒だったかもしれない。
「ふくろ」は「わたし」がつながるとき、「ふくろ」は外部にあって外部にない。外部のままでは、治療にならない。「ふくろ」の内部が「わたし」のなかに入ってきて、「わたし」が「ふくろ」になる。
一体になる。
そういうことを「意識」する。「意識」ということばを安水はきちんとつかっている。「こころ」と呼んで、「意識」といいなおし、もういちど「こころ」と言いなおす。
生きる、というのは意識の領分ではなく、こころの領分である、と安水は考えている。だからだろう、「箱」という作品には、「意識」という表現はなく、ただ、「こころ」だけがつかわれている。
小さな箱ふたつ
首から紐でつるす。
胸とコードで繋ぐ。
ひとつの箱は
こころの形を写しだす
くっきりと。
もうひとつの箱は
こころの姿を蓄える
とぎれなく。
はく息 すう息
寝たまも寝息
うかがっている。
心電図を記録する装置だろうか。「こころ」とは「心臓」である。病気の原因、というか、治療の対象が内臓なのだろうか。「こころ」と「心臓」がひとつになっている。「意識」は、たぶん、「心臓」ではなく「脳」につながっているのだろう。
「意識」も大切だが、いまは「こころ」を大切にしたいと願っている。
そして、「こころ」は「寝たま」(寝た間--という意味だろうか)も、からだのことをうかがっている。うかがう箱がこころ。「意識」は「うかがう」という静かな感じではなく、もっと、ちがったことばで動くのだろう。
そういうことを考えた。
安水稔和詩集 (1969年) (現代詩文庫〈21〉) 安水 稔和 思潮社 このアイテムの詳細を見る |