安水稔和「棒」ほか | 詩はどこにあるか

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安水稔和「棒」ほか(「火曜日」99、2009年08月31日発行)

 安水稔和「棒」は入院生活のことでも書いているのだろうか。病気のときの(たぶん)不安が書かれている。

棒がある
棒をもつ

棒がわたし
わたしが棒

倒さないように
倒れないように

そっと
そおっと。

 棒につかまって立つ。そのとき私は棒になる。棒と一体になる。最終連の「そっと/そおっと。」という似たことば、けれども違うことばの繰り返し。繰り返しのなかに、しずかにまぎれこんだ「お」の音。「お」を意識することで、動きがていねいになる。
 ていねい、とは意識することなのだ。
 ここには、ていねいに生きる意識が書かれている。入院して、いきることにとって「ていねい」がどれだけたいせつであるかを感じている詩である。

 「袋」という作品。

ふくろがある
わたしもふくろである。

ふくろにふくろが繋がる
手首と管で繋がる。

こころのどこかと
しっかり。

ふくろを意識する
ふくろであるわたしを意識する。

こころのどこかで
ぼんやりと。

ふくろがある
わたしもふくろである。

 「ふくろ」は点滴の袋かもしれない。そうすると「棒」は点滴をつるした棒だったかもしれない。
 「ふくろ」は「わたし」がつながるとき、「ふくろ」は外部にあって外部にない。外部のままでは、治療にならない。「ふくろ」の内部が「わたし」のなかに入ってきて、「わたし」が「ふくろ」になる。
 一体になる。
 そういうことを「意識」する。「意識」ということばを安水はきちんとつかっている。「こころ」と呼んで、「意識」といいなおし、もういちど「こころ」と言いなおす。
 生きる、というのは意識の領分ではなく、こころの領分である、と安水は考えている。だからだろう、「箱」という作品には、「意識」という表現はなく、ただ、「こころ」だけがつかわれている。

小さな箱ふたつ
首から紐でつるす。
胸とコードで繋ぐ。

ひとつの箱は
こころの形を写しだす
くっきりと。

もうひとつの箱は
こころの姿を蓄える
とぎれなく。

はく息 すう息
寝たまも寝息
うかがっている。

 心電図を記録する装置だろうか。「こころ」とは「心臓」である。病気の原因、というか、治療の対象が内臓なのだろうか。「こころ」と「心臓」がひとつになっている。「意識」は、たぶん、「心臓」ではなく「脳」につながっているのだろう。
 「意識」も大切だが、いまは「こころ」を大切にしたいと願っている。
 そして、「こころ」は「寝たま」(寝た間--という意味だろうか)も、からだのことをうかがっている。うかがう箱がこころ。「意識」は「うかがう」という静かな感じではなく、もっと、ちがったことばで動くのだろう。

 そういうことを考えた。




安水稔和詩集 (1969年) (現代詩文庫〈21〉)
安水 稔和
思潮社

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