有働薫「月の魚」、松岡政則「みんなのカムイ」 | 詩はどこにあるか

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有働薫「月の魚」、松岡政則「みんなのカムイ」(「交野が原」67、2009年10月01日発行)

 有働薫「月の魚」は不思議な詩だ。何が書いてあるのか問われたら、書いてある通りのことが書いてあるとしかいいようがない。その全部が見えるわけではないので、私の感想はいいかげんなものだと思うのだが……。

月の砂漠の砂の流れを
月の裏側の真闇にすむ魚が
泳いできて
わたしの垂らす釣り糸の
とがった針を
可愛い口で
飲み込んで

魚は痛さに
痙攣し
わたしの糸が痙攣する
わたしの魂が
痙攣し

地球から来た
水の一滴
わたしは
未曽有の愛に
失神する

 「月の砂漠」とは月の出ている砂漠だと思ってきたけれど、有働は、月にある砂漠のようにして書いている。そして、そこで魚を釣っている。魚は、有働に「釣られる」ためにはるばると月の裏側から、砂漠の砂の流れをやってきたのである。
 「釣られるため」とわたしは書いたけれど、これは、私の「誤読」。そんなことは書いてはいないのだけれど、私は「釣られるために」やってきたように感じてしまう。たぶん2連目が、そう思わせるのである。
 魚が釣り針を飲み込み、痙攣するとき、釣り糸がその痙攣を伝えてくる。そして、それを見て、「わたしの魂」が痙攣する。そのとき「魚」と「魂」は一体になる。やってきたのは「魚」ではなく、有働の「魂」そのものなのである。魂は、有働に魂の悲しさを伝えるために、月の砂漠を、月の裏側からわざわざやってきたのである。
 有働は、ここでは、有働の「魂」を救済するために、「魚」という「比喩」を必要としている。そんなこころの動きを感じる。
 この関係を「愛」ということばで有働は書き留めようとしている。たしかに「愛」なのだろう。そしてその「愛」は相手があってもいいが、相手がなくてもいい。いや、ここでは、私は有働が自分自身をいとおしんでいると感じた。その「愛」を感じた。自分が自分を愛する--愛さずにはいられない。そのときの、透明な悲しみを感じた。



 松岡政則「みんなのカムイ」の2連目、その6行が、とても印象に残る。

なぜとはなしに
川竹のにおいを嗅いでみたくなる
どこか見知らぬ地名に糾されに行きたくなる
艸が吐き出している粒粒のまこと
田面(たのも)に映るうすい緑のまことに
躰ごとさらわれたくなる

 この行にも、私は、自分が自分を愛するしかない悲しみのようなものを感じる。私をつなぎとめるいろいろなもの(たとえば、この詩には「同居人」が描かれているが)から、自然のなかの不思議な力でさらわれてしまいたい、さらわれて「ひとり」になってしまいたいという思いを感じる。そして、そのとき「ひとり」とはいうものの、松岡はほんとうは「ひとり」ではない。「緑のまこと」、自然の真実と一緒にいる。それは、自分を自然の真実のような状態にしたい、そういう状態で愛したいということかもしれない。
 1連目に「複合マンション建設現場/大型くい打ち機の黄色いアームが見える」という行があるが、そういう都会の暴力とは別の暴力(さらっていくのだから、ね)のなかで、自分を自分だけで守ってみたいという哀しい欲望のようなものを、有働の透明な悲しみに通じるものを感じてしまう。




雪柳さん―有働薫詩集
有働 薫
ふらんす堂

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