岡井隆『注解する者』(2) | 詩はどこにあるか

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岡井隆『注解する者』(2)(思潮社、2009年07月25日発行)

 語り継がれ、語り継ぐことで鍛えられた日本語の力。その水圧の高い水源からのことばが、流れながらつややかな輝きをみせる。その輝きは、別な表現で言いなおせば、「水の層の複雑さ」ということになるかもしれない。水は透明であり、たとえば川の表面の水と川底の水を、区別することは難しい。それは、岡井の「文学」そのものを語ることばと、日常を語ることばが、同じ「日本語」という表現でくくられてしまうのに似ている。川面の水も川底の水も「水」なのだ。文学そのものを注釈する文学的解説語(?)も、日常のあれこれを語る俗語(?)も同じ「日本語」なのだ。そして、それが「同じ日本語」であることを利用して(?)、ふたつは混じり合うのだ。
 いま、便宜上、「ふたつ」と書いたが、ほんとうはもっと複雑に、「いくつも」そういうものが混じり合う。それが岡井のことばであり、そのことばの奥には、和歌の、つまりは、伝統的なことばの動きがあるのだ。うねりながら、いろいろなものを取り込み、ひとつにしてしまう「詩」の伝統があるのだ。

 「鼠年最初の注釈(スコリア)は、志貴皇子の歌について語っていたのに、途中から鴎外の作品について語るという変な(?)作品である。鴎外の作品について語った部分がおもしろいが、枕(?)の志貴皇子の歌の部分には、日常がふいに顔を出すので、その部分もおもしろい。
 旅館の一室で、庭の藤棚の黒々池を覆うのを見ながら話せ、というテレビ局の指示にしたがいながら「注釈」をするが、二人の質問者があった。

一人は志貴皇子の人柄をどう思ひますかと言うんだが明解はある筈がない。皇子は技巧にすぐれた歌人であつたといふまでで天智帝の第四皇子でありながら天部帝の支配下に生きた逆境をこの歌から読みとるのは注解者の大きらひな作者偏重であらう。作者は難波へ旅して来て家郷を思つてゐる壮年の歌人といふところまででいいのぢやありませんか。それなら男の独り寝についてはどう思ひますかともう一人の質問者の声があがつたので、つまり男の淋しさを番(つが)ひの鳥たちに比べて歌ふのが一つのパターンなのでせうね。

 この応答。実際は、どうなのかわからないが、何とはなしに、岡井の「そんなこと、どうだっていいじゃないか」というような「いらいら」した感じが滲んでいて、とても好きである。(イライラしていなかったのだったら、岡井さん、ごめんなさいね。)文学と「人柄」なんて、関係ない。岡井は、そう言いたい。けれども、聞いているひとは、文学よりもたぶん「人柄」(人の生き方)の方に関心がある。岡井の言いたいことと、岡井から聞きたいことのあいだに「ずれ」がある。
 どんなときでも、発話者と、それを聞く人(読む人)とのあいだにはずれがある。
 そのずれを小さく(?)してみせるのが、注釈の仕事、発話者と聞く人のあいだをとりもつのが注釈の仕事なのだろうけれど、その注釈に対しても発話者と聞く人との関係があって、岡井のことばは強引にずらされてしまう。
 「といふところまででいいのぢやありませんか」「なのでせうね」と、丁寧に応答すればするほど、イライラが滲む。いいなあ。この口調は尾を引いて……。

高市黒人(たけちのくろひと)だつてさうぢやありませんか。今の愛知県熱田あたりを通りかかつた旅人がただ鶴の啼きながらとぶのに感動したわけではないでせう。鶴は家族を組んで飛び自分はひとりこの浜に立つてゐるといふところに歌の核心があり志貴皇子の鴨とその点同じである。

 このイライラ(?)というか、「ずれ」が引き起こす哀しみが、なぜか、(あたりまえ?)歌人の孤独と岡井の孤独引きつける。歌を読んで、作者の哀しみに引きつけられるというのはもちろんなのだが、そこに聴講者の質問が引き起こした「ずれ」が作用して、ばどうしてわからない?という哀しみとなり、岡井を孤独にする。
 こういう深層のこころの動きが、その後の岡井の日本語を進行方向を変える。ずらす。ほかのことだって書き得たはずなのに、「孤独」になって、「理解者」をついつい、求めてしまう。そんな感じで、志貴皇子の部分は終わる。さっきの引用のあと、終わりまで。

すべての動物は美しく緊密に描かれるが孤独ではないのに作者はひとりであると答へながらもう一度庭をみると黒松が立ち灯がともつて夜へ移らうとしてゐる。ヴィデオはいつのまにか止みかたはらの渋茶も冷えて注解者に与へられた時はしづかに消え去らうとしてゐるのであつたから注解する者は妻の待つ「大和」へ向けて退席するために傘を持ちオーバーコートを着て黒のハンチングをななめにかぶつてよろりと立ち上つた。

 うーん。「動物」を「質問者」、「作者」を「注解者」に置き換えて読みたくなりますねえ。
 そして、思うのだが、ああ、こういう「孤独」があるから、ことばはおもしろくなるんだなあ。孤独にたえながら、層を増やしてゆくものなのだなあ。
 ということと同時に。
 やっぱりわかってくれるのは、長年暮らしている連れ合いだけなんだなあ。哀しいような、さみしいような、うれしいような……。岡井の大嫌いな「人柄」を、思ってしまいますねえ。(ごめんなさいね。)

 一番俗(?)な部分を取り上げてみたけれど、岡井のことばの層はほんとうに豊かである。作品ごとにいろいろな層が登場する。地層の断面をみると、その縞模様の美しさにひかれて、地質学者ではない私は、ただそこにいくつもの層があるということがわかるだけで満足するけれど、岡井の作品に触れて感じるのも、その感動に似ている。
 書いてあることはきっといろいろ重要な「意味」をもっているのだろうけれど、それよりも、いくつものことばの層が、それぞれの断面の美しさをみせながら、揺るぎなく重なっている。そのことに驚き、そのことに、ふと笑いがこみあげるくらい楽しい気持ちになる。



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岡井 隆
日本経済新聞出版社

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