坂本つや子「結構な病気」、青山かつ子「巻かれる」 | 詩はどこにあるか

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坂本つや子「結構な病気」、青山かつ子「巻かれる」(「すてむ」44、2009年07月25日発行)

 坂本つや子は、一貫して戦中・戦後の体験を描いている。「結構な病気」は、突然動けなくなり、話もできなくなったときの様子を描いている。

たてつけの悪い喉の奥で誰かが肺と胃に別れ それぞれの扉が何かに擦れ クフクフと壊れていく わたしは消えていくのか 何ともわからぬ それでも見知った感情らしいものがゆるく倒壊の真中を駆け抜けていくようだ もう取り返せない時間にわたしはいるだけなのか唇は上下に力をこめて引き離し何かを言おうと懸命なわたし 唇の上下は薄く離れただけ まるで 何かに襲われたよう なんだ なぜ アアともウウとも言えないんだ

 私は坂本の詩を読むたびに不思議になる。失礼な言い方を承知で書くのだが、なぜ、坂本は死なないんだ--と思ってしまうのである。
 私は小さいときからたいへんな病弱だった。小学校は1か月休まずに登校したことはない。いつも休んでいた。毎週水曜日に、市民病院へ通っていた。先生に「水曜に来ると1日学校を休むことになるから、土曜に来なさい。土曜日も、先生は病院にいます」と言われた。家は山の中にあり、病院へ通うのは一日仕事だったのだ。病院通いは、3年の初夏くらいから土曜日にかわったのだが、その「水曜ではなく、土曜に来なさい」ということばがなぜか、忘れられない。学校は大嫌いだった……。
 そんな私からみると、坂本が生きているというのは、ほんとうに信じられない。うらやましい。私なら(小学生の宿題の感想文みたいだが)、絶対に死んでしまっている。

 何が、坂本を支えているのか。坂本の「いのち」を頑丈にしているのか。
 ことばである、と私は思う。肉体に起きていることをきちんとことばにする。そのときの、意識の強さが「いのち」を頑丈にしている。
 書き出し。

たてつけの悪い喉の奥で誰かが肺と胃に別れ

 びっくりしてしまう。私は、こんなふうに自分の肉体を見つめることができない。痛み、苦しみのなかでは、私は何も考えられない。ただただ、痛い、痛い、苦しい、苦しいとうめきつづけ、うめくのに疲れて、気を失って眠る。いや、痛い、苦しい、ということばすらでなくて、ただうなるだけである。

唇は上下に力をこめて引き離し何かを言おうと懸命なわたし

 こんなふうに、自分の肉体のなかの動きを、ことばで再現することは、私には絶対にできない。
 坂本は、けれど、そういうことをことばにする。ことばにすることで、肉体のなかに残っている「いのち」を鍛えなおすのだ。動かない唇にむけて、上下に引き離すということを、肉体のなかの神経にだけまかせるのではなく、ことばにして、命じるのだ。それは、きっと「脳」の命令というより、肉体に残っているあらゆるエネルギーを集中させることなのだ。ことばが、そういうエネルギーをぐいと引き絞り、集め、それから放散する。そして、そうすることで、意識が頑丈になる。強靱になる。
 坂本は、そうして、そういう動けない状態で、何も言うこともできないのだが、「他人」の会話だけはしっかり聞きとることができる。病人のまわりで、あれこれ言い続ける人たち。
 ここでは引用しないが、坂本は、そういうことばをきちんと記憶し、書き留めている。
 坂本にとって、他人とは、また、ことば、でもあるのだ。
 他人のことばは坂本をときにののしる。ときに、親身に心配する。同じ日本語が、人がかわれば、語られることも違う。あたりまえのことであるけれど、そういうことを坂本はしっかりききとる。そして、あるときは、そのことばにはげしく反発し、意識を強靱にする。あるとき、べつのことばに感謝に、意識をやわらげる。他人のことばを聞きながら、意識の振幅の幅をひろげていく。どんなことばが人間を支え、どんなことばが人間をいじめるかを見極め、ことばを「哲学」に高めていく。
 的確な言い方がわからないのだが、自分の肉体をことばにすることで、あるいは他人のことばを吸収することで、坂本の「肉体」がかわる。坂本でありながら、坂本を乗り越えてしまう。坂本を超越して、スーパー坂本になる。スーパーマン(スーパーウーマン)になる。 
 あ、これは、死なないなあ。死ぬわけがないなあ、と思う。



 青山かつ子「巻かれる」は、坂本の「肉体」と比べると、いい加減(?)である。だらしない(?)部分がある。他人を見極めない。長嶋南子もそうかもしれない。他人との接触を平気で(?)受け入れる。受け入れながら、自分を逸脱していく。坂本の肉体は坂本自身を超越していくのに対して、青山、長嶋の肉体は、自分自身から逸脱していく。その逸脱した部分で「遊ぶ」。そして、遊ぶだけ遊んだら、また自分の肉体へ戻ってくる。そのとき、精神がちょっと、いままでとは違って広がっている。だから、「あなた、そんなこともしらないの?」と、最後は笑ってみせる。
 
母を待っていると
むせるようなあおいにおいをつけて
山からころがってきた
ロープでぐるぐる巻きにされている
駆けよるわたしに
こんなにきつく巻かれるのは
気持ちいいものだよという
(そんなにいいなら巻かれたいな)
思っただけなのに
母は ほどいたロープで
わたしをぐるぐる巻きにする
ひんやりした弾力のあるロープだ
生臭いロープね というと
そうかい
ロープが男の声でこたえる

 なかほどにある「思っただけなのに」。ここに青山と坂本の大きな違いがある。青山は思っただけ。けれど、坂本は思っただけではすませない。思ったことは、きちんとことばにする。「思い」にまでいたらないことさえ、その「思い」を探し出してきて、ことばにする。ことばにするたびに、坂本の肉体は強靱になるのだが、青山の場合は、「思っただけ」の「思い」のなかをことばがさらに逸脱していく。そこでは、いわば「想像力」が豊かになっていく。坂本が「肉体」を鍛えるのに対して、青山は「想像力」を鍛える。
 詩のつづき。

細くてくろい舌をちろちろ延び縮みさせながら
ロープはしなやかにきつくしめてくる
うっとり眠ってしまいそうで

 何だか、余分なこと(?)を考えてしまいそうでしょ?
 ことばは、余分なことを考えるためにある。いいなあ。






黄土の風
坂本 つや子
花神社

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