誰も書かなかった西脇順三郎(66) | 詩はどこにあるか

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 『旅人かへらず』のつづき。

一六一
秋の夜は
床に一輪の花影あり
もろもろの話つきず
心の青ざめたる
いと淋し
『古屏風の風俗画の中にある
狐のやうな犬
遊山する女の眼
桜と雲の上に半分見える
寺や社の屋根
秋のまつげのやうな草の葉
思ひ残る』

『から衣(ごろも)を着てゐた時代の
女のへそが見たいと云つた
女がある
秋の日のうらがなしさ』 

誰か立ちぎきするものがある

 まだつづきがあるのだが、この作品の「もろもろの話」には、終わりから2番目(ここでは引用していない)の連ににだけ「女」が登場しない。あとは「女」が登場する。ただし、最初の「話」のなかの「女」は絵である。その最初の「話」は屏風絵を題材にしているせいか、とても絵画的である。
 特に、 

遊山する女の眼
桜と雲の上に半分見える
寺や社の屋根
秋のまつげのやうな草の葉

 が絵画的である。「桜と雲の上に半分見える」は屏風絵の描写だが、まるで絵のなかの女がさくらや雲の上に半分頭を出している寺や神社の屋根を見ているような感じがする。まるで、「湯算する女」そのものになって、絵ではなく、実際の風景を見ているような錯覚に陥る。絵の登場人物になったと錯覚するくらい、つまり、西脇の詩ではなく(ことばではなく)絵そのものを見ているような錯覚に陥る。ことばが絵画的だから、そういう印象が生まれるのだと思う。
 また、「秋のまつげのやうな」ということばの中にある「まつげ」が「遊山する女の眼」へ引き返すので、いっそう、絵のなかの登場人物になったような気がする。
 だから「思ひ残る」ということばに触れたとき、自分のこころが、絵のなかの女、遊山する女の中に、確かに思いが残ってしまったのだという気持ちになる。

 次の「話」。その3行目「女がある」は少し変わっている。「いた」ではなく「ある」。存在した、「いた」(いる)という意味で「ある」。「誰か立ちぎきするものがある」の「ある」と同じつかい方である。
 ただし、厳密には、同じではない。「誰か立ちぎきするものがある」というとき、その「誰か」は「男」か「女」かわからない。どんな存在かわからないとき、「いる」ではなく「ある」ということが多い。英語では、こういうとき主語に「he(she )」ではなく「it」をつかい、動詞は「be」をつかうが、日本語では「動詞」の方で「いる」「ある」という使い分けをするように思う。
 ここで「ある」をつかわれると、なんとなく、くすぐったい感じになる。なぜ「いる」(いた)をつかわなかったのか。
 次の行と微妙に関係しているのではないか、と思う。
 「女がある」でことばがおわるのではなく、「女が/ある秋の日のうらがなしさ」という具合にことばが行を渡ってゆくべきなのではないか、という思いが私には残る。
 3行目が「女が」でおわってしまうと、それを受ける「動詞」がなくなるが、詩は、散文とは違うから、そういう乱れはあっていいのだ。「女が……」と言おうとして、その「……」を考えているうちに、次のことばがやってきたので、ついついそれを取り込んでしまった。そういう印象がある。
 「いま」「ここ」の「秋の日のうらがなしさ」ではなく、「ある」秋の日のうらがなしさ。過去を思い出している。思い出している限り、女は、また「いま」「ここ」にはいない。「いま」「ここ」にはいないのだけれど、「秋の日のうらがなしさ」とつながる形で思い浮かぶ。「いま」「ここ」にあらわれてくる。
 だから「ある」なのだ。
 いくつもの「意味」がかさなりあって、「ある」を奇妙な存在感のあることばにかえてしまっている。
 詩、というのは、きちんとした散文にはなれずに、ふいに乱れる意識かもしれない、と思うのである。
 「女がいた」と書けば単純だけれど、そう書こうとする意識をふいに裏切って、ことば自身が動いていくのだ。ことばがことば自身で、ことばの「理想」を実現してしまう。詩人は、それをきちんと受け止め、書き留める--それが詩人の仕事なのかもしれない。





詩人西脇順三郎 (1983年)
鍵谷 幸信
筑摩書房

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