『旅人かへらず』のつづき。
一二六
或る日のこと
さいかちの花咲く
川べりの路を行く
魚を釣ってゐる女が
静かにしゃがんでゐた
世にも珍しきことかな
「世にも珍しきこと」と言われているのは何だろうか。釣りをする女? しゃがんでいる女? 私は「音」から「しゃがんでいる」の方だと思う。思ってしまう。
「さいかちの花」というのは、私はどうしても思い出せないのだが、さいかちというのは幹に棘があり、豆のような実がなる木である。その豆のような実は、田舎の川の、小さい名前もないような魚が釣り針にかかったように、哀れである。
西脇がこの詩を書いたとき、ほんとうに釣りをしている女を見たのか。
私には、どうも、さいかちを見ているうちに思いついて書いた空想のように感じられる。さいかちの棘は釣り針の先っぽである。さいかちは川の近くにある。だから、釣りを思いついたのだろう。そして、釣り人は、男ではなく、女の方が、なぜかはっとさせるものがある。だから、女。--そして、その姿を描こうとしたとき、「さいかち」ということばの冒頭の「さ」が「静かにしゃがんで」の「さ行」を誘い出したのだ。(「さ」と「しゃ」の子音は正確には別の音ではあるけれど……。)私には、そんなふうに感じられる。「さいかち」という音には、そんな力がある。
一三二
茶碗のまろき
さびしきふくらみ
因縁のめぐり
秋の日の映る
3行目、「因縁のめぐり」という音が異質である。起承転結の「転」という感じで、1行目、2行目の音を破っている。その破壊によって、「秋の日の映る」がとても静かな感じになる。そして、そのまま、もう一度1行目へ帰っていく。
この循環運動は「秋の日の映る」の「の」の力が大きいと思う。「秋の日が映る」でもいいのだろうけれど、「の」の方が静かに循環する。「まろき」の「ろ」の中にある「お」と「秋の日の」の「の」の中にある「お」が通い合う。「が」の場合は、音の明るさが違ってしまう。
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