野木京子「梔子の朝方」 | 詩はどこにあるか

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野木京子「梔子の朝方」(「文藝春秋」2009年09月号)

 野木京子「梔子の朝方」の1行目で、私は奇妙なことを感じてしまった。

棒のように(ぼーれぃ)役立たず
朝焼けの坂の途中で立ち尽くしていたら
どこからか降りてくる人々がいて
彼らは私を通り過ぎ あるひとは私の胴を通り抜けた
              (火を越えて海へ行くの?)
つぶれた街の子どもたちは私を取り囲み
ぐるぐる回り 私の手をつかみ 連れていこうとするので
私はわぁわぁ叫んで 声をあげて振り払ったが
今でも体の一部は連れていかれたままのよう
穴があいて どこか存在がすぅすぅする

 1行目の「ぼーれぃ」は漢字で書けば「亡霊」になるのだと思う。「亡霊」のような体、何かを失ってしまった体。その感覚の中を人が通り過ぎていく。3、4行目は、そういうことを書いているのだと思う。全体としては、「亡霊」のように、何かを失ってしまった空虚な感じ(存在感が欠落した感じ)を書こうとしているのだと思う。
 そうはわかっているのだが、1行目の「ぼーれい」を私は、「棒例」と思ってしまったのだ。「棒例」と、誤読したいのだ。(誤読は、私が一番好きなことがらだ。誤読しているときが、一番愉しい。)
 「棒例」というのは、もちろん、造語である。どういう「意味」かというと、「棒」の「例」(例え)である。「棒のように」というのは直喩であるが、その「棒のように」を言いなおしたことばが「棒例」。--そして、その「棒例」という奇妙なことばをつかうのは、実は、比喩する(?)運動そのものを描きたくて、わざとそう書いているのである。野木がほんとうに書きたいのは「亡霊のような欠落感」ではなく、比喩をつくりあげる精神のありようそのものなのである。
 比喩とは、いま、ここにないものをつかって、いま、ここにあるものを印象的に表現することである。ある存在と比喩のあいだには、何か不思議な関係がある。存在と比喩のあいだを、何かが行き来する。その精神の運動は、もしかすると、どこかで存在感を書いたものかもしれない。
 --というのは、正しい言い方ではないかもしれない。
 ある存在を、比喩をつかって語るとき、何かが欠落する。比喩が押しつけたものが、存在から何かを押し出してしまう。それは重要なものであるかどうかはわからないのだが、たとえば人間を「棒」にたとえたとき、人間の何かが「棒」を受け入れるとき失われていく。比喩とは、何かを奪い取り、別の何かをつけくわえる行為かもしれない。
 そういう運動、ことばの操作をする運動をつづけると、人間は、やはり存在感を欠いたものになってしまうのではない。何か大切なものを失ってしまうのではないか。

 --というようなことを、野木は書きたいわけではないのだろうけれど、私は、「ぼうれぃ」ということばから、そのことばが登場するすばやさから、そんな奇妙なことを考えてしまった。


ヒムル、割れた野原
野木 京子
思潮社

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