高橋睦郎『永遠まで』 | 詩はどこにあるか

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高橋睦郎『永遠まで』(11)(思潮社、2009年07月25日発行)

 「旅にて」のつづき。

 死を生きるとは、死と、ことばで戦うこと--と「そよぎの会話」(戦ぎの会話)から、考える。そうした考えの先に次のことばがあらわれてくる。
 ここからが、壮絶である。

 4
私はまだ じゅうぶんに死んでいないから
月光に誘(いざな)われて 土盛(ども)りの外へ出てくる
死者どうしの媾合で生まれるのは
血液と体温のない赤子だ と知っているから
真夜中の墓原で愛しあおう とは思わない
戸の隙間から しばらく覗いてみて
寝息を立てるあなたの脇に しのび入る
熟睡するあなたに跨(またが)り 精を絞りつくしたら
ふらふらと出て行く 私は胎(みごも)っている
だが何を? 孤児という死児を?
まっ黒な穴のような絶望を?
目覚めたあなたは 私のことなど知らない
私の落ちつくところは 何処にもない
墓の中は暗く湿って 居心地の悪いところ
私を じゅうぶんに殺してください

 「媾合」。しかし、それは愛ではない。戦いだ。相手から「いのち」をしぼりとる。そして、あってはならないものをみごもる。ただし、このあってはならないもの、というのは「生きている」ということを前提にしたとき、つまり、死を生きることを前提としないとき、言い換えると、「現世のことば」で表現すると「あってはならないもの」であって、死を生きるときに、それがあってはならないものかどうかはわからない。
 むしろ、それは死を生きるときに、絶対的に必要なものかもしれない。

 死を生きる、とは、どういうことか、まだだれも知らない。
 その知らないものを書く--死を借りながら書く。ことばを動かす。そこでは、「愛」ではなく、別なものが、暴力が必要である。

私を じゅうぶんに殺してください

 死者をさらに殺すこと、死者は殺されて死ぬときに、死者として生きる--矛盾。私の書いていることは、同じことばが同じことばを追いかけるだけで、どこへも進んでいかない。

 この循環を、むりやり破壊し、打ち破るように、高橋は暴力を描く。愛ではなく、暴力を。「そよぐ」という音とはうらはらに「戦ぐ」という文字(漢字)が連想させる(どこかでつながっている)暴力に引きつけられていく。

 5
墓は 暴(あば)かれなければならない
死者は 鞭打たれなければならない
骨と記憶は 砕かれなければならない
打って 打って 打つ手が痺れきるまで
砕いて 砕いて 砂と見分けがつかなくなるまで
そうしないと 死者は私たちに立ちはだかる
死者は突然 生から疎外されたことで
生きていた時以上に 嫉みぶかくなっているから
嫉みはけっきょく 誰のことも倖せにしない
生きている私たちも 死んだ彼ら自身も
砕かれて 微塵になって 死者はやっと解放される
墓の上を 安らかな天が流れる

 死者を生きることは死者と戦い、死者を「殺す」こと。「殺す」ことによって、すべては引き継がれる。「殺す」--殺す過程で生きる「いのち」が、たぶん「永遠」につづいていくのだろう。

安らかな天

 それは、そのとき、ふいにやってくるものなのだろう。

 しかし、これは何という旅だろう。「大地が土だけで出来ていることを」知ったことからはじまった旅は、死者の存在に気づき、死者を生きることは死者と戦い殺すことだと気がつき、唐突に「天」を発見する。
 「大地」と「天」の間。
 そこにある、「いのち」。
 高橋の詩は、このあと、「大地」と「天」のあいだにある「肉体」を発見する。つまり、死者ではなく、生きているものを発見する。生きている肉体というものは、あらゆるものを「いのち」のなかに取り込み、そして同時に排泄する。
 たぶん、死者をも、殺し、殺すことによって肉体の中に取り込み、存分に、その栄養吸収したあと、残ったものを排泄する。
 暴力--美しい暴力の結果としての排泄。

 6
人は 猿のようにしゃがんで 脱糞する
いきむ わななく 屁(ひ)る 糞(ば)る
いや 猿を汚(けが)してはならない
人は 人として 脱糞する
いきむ わななく 屁る 糞る
脱糞する人は 脱糞することに集中
全身 糞となって 発光している

 死者を殺し、殺すことで、死者になり、発光する。糞(排泄したもの)と糞をする人間(排泄する人間)は、「ひとつ」のいのちである。ひとつとなって、「発光」する。
 田原と出会い、その田原の「風土」である中国の大地に触れ、高橋は、そういうところまで、ことばを突っ走らせた。中国の大地と「戦い」ながら、そこまで、いのちを問い詰めてきた。そうすることで、田原とも中国とも「ひとつ」になった。「ひとつ」になって発光している、ということができる。

 詩は、このあともまだつづくのだが、「全身 糞となって 発光している」ということろまできたら、あとは、その発光している光が照らす風景である。
 最後の4行。

さて 詩人は何をする?
彼はだんまりを決めこむ
言葉に そう簡単に来られても
困るので

 ことば。やってくることばを拒絶するようにして、「発光」後の行は書かれている。私には、そう思える。それから先へことばが動いていくことがあるにしろ、急ぐ必要はない。ことばを拒絶して、もう一度「大地」へ還る時間なのだ。「土だけの大地の上に 土だけの道」へ帰って、高橋は、田原とともに、あらためて「旅」をする。
 いま、書いたことを捨てるために。ことばを「殺す」ために。言い換えると、「旅にて」という詩に書いたことばを超越する新しいことば生むために。

 この旅に終わりはない。終わりはないけれど、ともに歩く人がいるとき、それはきっと愉しい。



十二夜―闇と罪の王朝文学史
高橋 睦郎
集英社

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