高橋睦郎『永遠まで』(8) | 詩はどこにあるか

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高橋睦郎『永遠まで』(8)(思潮社、2009年07月25日発行)

 「おくりもの」には「七年後の多田智満子に」という副題がついている。とても美しい行がある。

今朝がた 夢にあなたを見た
あなたはうしろ向きで
地面に しゃがんでいた
ぼくは声をかけようとしたが
やめた
あなたが ぼくのことを
憶えていない と思えたから
死の床のあなたは
未知のむこうが愉しみだ
と 顔じゅうでかがやいた
むこうがわに着いて
そこがどんなか
知らせる方法が見つかったら
きっと背中を押すから
と ほほえんだ
あれから七年
あなたは忘れてしまったのだ

 高橋にとって、多田とは常に未知のものに対して顔を輝かせる人間だったのだろう。高橋は、多田になって死んでみる。その死を生きてみる。そうすると、未知のもの、いままで知らなかったものがいっぱい見えてくる。それは愉しい。至福だ。「そこがどんなか/知らせる方法がみつかったら/きっと背中を押すから」という約束さえ忘れてしまうほど、きっと愉しい。
 死の床であってさえ、未知に対する愉しみを知っていた。実際に、未知の国へ行ってしまえば、もう、その愉しみのとりこになる。昔の約束など、覚えているはずがない。
 それは当然のことなのだ。未知のものを書くこと、詩を書くことに生涯を捧げた多田なら、きっと、死をそんなふうに生きる。そうでなくてはならない。高橋などを思い出して、この世に未練を残してもらっては困るのだ--と高橋は思っている。それほど、未知にこころを奪われてしまう多田を高橋は愛していた。高橋にとって、多田は未知を愛する知だったのだ。
 このことを、高橋は、詩の後半で言い換えている。

生きている者は 生きる中で
死者について 忘れっぽい
と世間でいうのは 正しくない
忘れるのは 死者のほう
いいえ 咎めるのではない
忘れることが 死者にとって
生者にとっては 忘れないことが
なによりの慰謝なのだ

 死者は生者を忘れてしまわなければならない。そうしないと、せっかくの(?)死を生きたことにならない。
 高橋は、死んでこそ、というか、死んだなら、その死を生きるのが人間にとっていちばん大切なことだと考えている。
 生きている(生き残っている)高橋は、常に、死者(多田)を思い出し、といっても、昔の、生きているときの多田を思い出すというのではなく、死の世界を生きているという多田を思い出すこと、思うことが、「慰謝」である。多田は、死の世界、その未知の世界を夢中になってことばにしようとしている。それを、高橋は、生きながら、追いかけるのである。ことばで。

あなたは忘れ ぼくは忘れない
忘れないぼくも 死んだ瞬間から
あなたと同じに 忘れてしまうだろう
忘れたあなたと 忘れたぼくが
そこで出会うことは たぶんない

 それは寂しいことか。悲しいことか。それを寂しい、悲しいと思うのは、生にとらわれた考えなのだろう。知を生きる二人、多田と高橋は、新しい世界では新しいことばを追いかける。そのことばを追いかけることに夢中になって、二人が知り合いであったことさえ忘れてしまっている。それは、死を生きている二人にとっては至福である。なぜなら、もし、そのとき二人が出会って、互いを認識できるとしたら、二人は「新しい世界(未知の世界)」を生きているのではなく、過去を、わかりきった世界を生きていることになるからだ。
 そんなことでは、死んだかいがない。
 死んでしまったからには、生きていたときは知ることのできなかった新しい世界を発見し、それをことばにし、自分自身を喜びでみたさないで、どうしよう。

忘れたあなたと 忘れたぼくが
そこで出会うことは たぶんない
そのことが あなたの死のおくりもの
あなたのおくりものを育てるために
おりおり あなたを思い出す
ときには 夢に見る
そのことが 黄泉であり
ハデスなのですね
明るくも 暗くもない
それが生きること
いつか死ぬことなのですね

 哲学を死の練習とソクラテスは言ったが、高橋にとって、死を生きている多田を思い出すことが、死の練習--つまり、生きることなのだ。




十二夜―闇と罪の王朝文学史
高橋 睦郎
集英社

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