『旅人かへらず』のつづき。
九〇
渡し場に
しやがむ女の
淋しき
「し」の音のくりかえしが美しい。「しゃがむ」という短いことば、俗な響きが、なぜか美しい。
西脇にかかると、どんなことばも美しい音になる。
九二
ある頃の秋の日
恋人と結婚するために還俗した
ジエジュエトの坊さんから
ラテン語を習つてゐた
ダンテの「王国論」をふところに入れ
三軒茶屋の方へ歩いた
あの醤油臭いうどん
こはれて紙をはりつけたガラス瓶
その中に入れて売つてゐるバット
コスモスの花が咲く
安ぶしんの貸家
「還俗」--これは、もしかすると西脇のことばそのものを定義するときに有効な表現かもしれない。
西脇のことばの清潔さ、それは「聖」をいったん知った上で「俗」へもどってきたときの美しさに思える。そうした西脇に触れると、「俗」が一瞬にして「聖」へと浄化していく感じがする。
「俗」は「俗人」が書いては「俗」にもならないのかもしれない。
「あの醤油臭いうどん」の「あの」が、その前までの「聖」を一気に「俗」な現実に引き戻す。「あの」が含んでしまう「時間」が、ことばを濃厚にする。
それからつづく「俗な現実」、日常のリアリティー(?)が、コスモスの花によって、洗われ、つづく「安ぶしんの借家」の「ぶしん」のひらがな表記が、なぜか、とてもうれしい。漢字だと「意味」になってしまう。ひらがなは、その意味をほぐしていく。音の中でほどかれる肉体というものを感じる。頭で「意味」を考ええるのではなく、のど、口蓋、舌が、音といっしょに洗われる。
九四
「失はれた浄土」は盲人の書いた地獄
へくそかづらの淡いとき色も
見えないただ
葡萄の蔓
へうたん
麦
がその庭の飾りで
ふるえてゐる
「へくそかづら」。この汚いことば(?)の美しい音。素朴な音。永遠の音。この美しさに、西脇自身もとまどっているのかもしれない。
「へくそかづら」という音のまがり、ねじくれが、形なって葡萄の蔓になり、その曲線から「へうたん」が導き出される。--こういう行を読むと、たしかに西脇は視覚の人だという気持ちにもなる。西脇を視覚の人、西脇の詩を絵画的と呼びたくなる。
でも、私にとっては、西脇は「音」「音楽」の詩人である。
「見えないただ」という行。「見えない/ただ」ではなく「見えないただ」という呼吸のとり方、それから「葡萄の蔓/へうたん/麦」というリズムの刻み方が、とてもおもしろい。
変化していくリズムを立て直す(?)ような、「が」を行頭におく「がその庭の飾りで」ということばの運び方、そして「ふるえてゐる」という落ち着かせ方--その音の動きが、私には、やはり「音楽」としかいいようがない。
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