『旅人かへらず』のつづき。
六九
夕顔のうすみどりの
扇にかくされた顔の
眼(まなこ)は李(すもも)のさけめに
秋の日の波さざめく
「さ行」の音が響きあっている。この詩でも最終行「波さざめく」には助詞がない。助詞がないことによって、ことばのスピードが速くなっている。
七〇
都の街を歩いてゐた朝
通りすがつた女の後(うしろ)に
ベラームのにほひがした
これは小説に出てゐたことだ
誰の書いた小説か忘れた
さほど昔のことならねど
詩は体験を書くわけではない。ことばを書く。
実際に女の匂いをかいだように書いて、それは実は小説のことである、と切り返す。その瞬間、頭のなかに浮かんだ光景が、ことばそのものになる。
その軽さがとても楽しい。
七二
昔法師の書いた本に
桂の樹をほめてゐた
その樹がみたさに
むさし野をめぐり歩いたが
一本もなかつた
だが学校の便所のわきに
その貧しき一本がまがつてゐた
そのをかしさの淋しき
この詩は西脇の嗜好をとてもよくあらわしている。「まがつてゐ」の木。そして、それが「便所」という俗なもののそばにあること。この場合「俗」はほとんど「永遠」とおなじである。「聖」よりも「俗」が永遠なのだ。そこには、人間の暮らしがあるからだ。
「俗」のおかしみ。そしてそれを「淋しさ」と結びつけている。
わび・さびというものが対象に属するとしたら、淋しさは対象ではなく、その対象にむけられた人間のいのちのなかにある。わび・さびは共有できるが「淋しさ」とその美しさは、たぶん、共有できない。共有できないからこそ、それを西脇は書く。書くことで、そこに成立させる。
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