『旅人かへらず』のつづき。
六五
よせから
さがみ川に沿ふ道を下る
重い荷を背負ふ童子に
道をきいた昔の土を憶ふ
2行目は「さがみがわにそふ(う)みちをくだる」と読むのだと思う。思うけれど、それにつづく行を読むとき、ふと「さがみがわにそふ(う)どうをくだる」と読みたくなる。3行目の「おもいにをせおふ(う)(しょう)どうじに」の「さ行」のゆらぎ、「どう」という音の重なりと響きあう。
そうした響きあいのあとで、「道をきいた昔の土を憶ふ」を読むと「土」は「つち」なのだろうけれど、記憶をくすぐる感じ(憶ふ--というのは、そういう感じじゃないだろうか)で、「ど」の音が聞こえてくる。目は「つち」と読んでいるのだけれど、耳は「ど」とささやいている。
だからこそ「土」を記憶からひっぱりだすのだと思う。
「昔の土を憶ふ」ということばで西脇があらわしたかったのは、どこの「土」だろう。どういう土だろう。歩いている道の「土」だろうか。人々が踏み固めることでできた土の道のなかにある時間だろうか。
もっと素朴に、童子の肉体や服に「土」、「土まみれの童子」を思い出したということではないだろうか。
子どもは働く人間である。いまは違っているが、昔の子どもは働いた。子どもも働くというのが人間の暮らしである。いのちである。この詩には「淋しい」ということばはないが、そういう働く子どもに「淋しさ」がある。いのちの美しさがある。
私は貧しい田舎の生まれなので、そんなことを思った。小学生のとき、私だけではなく、友達はみんな、おぼつかない手でくわを持ち畑を耕した。重い野菜や刈り取った稲を背負って家まで運んだ。肉体も服も泥まみれであった。
六八
岩の上に曲つてゐる樹に
もうつくつくぼふしはゐなく
古木の甘味を食ひだす啄木鳥(きつつき)たたく
最後の行の「啄木鳥たたく」がとてもおもしろい。助詞がない。キツツキがたたく、だろう。西脇はこういうとき、しばしば「の」を使うけれど、ここでは省略されている。その結果、「か行」「た行」のおもしろいリズムが生きている。直前の「食ひだす」ということばも、最後のリズムに大きく影響している。修飾語がキツツキにぴったりくっついて「間」がない。その「間」のないリズムが「きつつきが(あるいは、の)たたく」とあるべきころろから、間延びする「が」(の)を奪いさったのだ。
2行目の「ゐなく」「たたく」と脚韻になっているところも、リズムを強調している。
西脇順三郎全詩引喩集成 (1982年) 新倉 俊一 筑摩書房 このアイテムの詳細を見る |