『旅人かへらず』のつづき。
四三
或る秋の午後
小平村の英語塾の廊下で
故郷のいとはしたなき女
「先生何か津田文学
に書いて下さいな」といつた
その後その女にあつた時
「先生あんなつまらないものを
下さつて ひどいわ」といはれて
がつかりした
その当時からつまらないものに
興味があつたのでやむを得なかつた
むさし野に秋が来ると
雑木林は恋人の幽霊の音がする
櫟(くぬぎ)がふしくれだつた枝をまげて
淋しい
古さびた黄金に色づき
あの大きなギザギザのある
長い葉がかさかさ音を出す
前半と後半にわかれる。前半は女とのやりとり。女の口語のなかにある、やわらかな響き。「下さいな」の「な」、「ひどいわ」の「わ」。そこに口語であるけれど、一種の「きまり」のようなものがある。口語にも文体がある。文体には「音」がある。独立した「味」がある。
その「音」の対極に「つまらないもの」がある。それは女の「口語」の「音」がとらえることのできない「音」の世界である。「淋しい」音である。
「恋人の幽霊の音」と書いて、そのあと、西脇はその「音」を説明している。具体的に書いている。
「ふしくれだつた」「まげて」。まっすぐではないもののなかにある「いのち」。「古さびた」もの。「ギザギザ」のもの。新しくはないもの、まっすぐではないもの。そのなかにつづいている「いのち」の音。--それを西脇は「淋しい」と呼ぶ。
そして、それは、最初に書いたこととは矛盾するかもしれないが、女の口語の「な」とか「わ」という音に通じるものを持っている。「な」とか「わ」は、男のまっすぐな(?)口語から見ると、「つまらない音」であり、男のまっすぐさを逸脱した「音」である。ある意味で、曲がっている。ふしくれだっている。古さびている。「音」のなかに古いものをもっている。古い「いのち」をもっている。その「淋しさ」、その「美しさ」に西脇は共鳴している。
だから、自然に、前半の女の口語の世界が、西脇のいう「つまらないもの」の世界と向き合う形でつながっていく。
そして、そのふたつは向き合いながら「和音」をつくる。
女の「淋しさ」と西脇の「淋しさ」が、共鳴して、和音となって、「美」になる。
定本西脇順三郎全詩集 (1981年) 西脇 順三郎 筑摩書房 このアイテムの詳細を見る |