誰も書かなかった西脇順三郎(22) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 
 『旅人かへらず』のつづき。

一〇
十二月の末頃
落葉の林にさまよふ
枯れ枝には既にいろいろの形や色どりの
葉の蕾がでてゐる
これは都の人の知らないもの
枯木にからむつる草に
億万年の思ひが結ぶ
数知れぬ実がなつてゐる
人の命より古い種子が埋もれてゐる
人の感じ得る最大な美しさ
淋しさがこの小さい実の中に
うるみひそむ
かすかにふるへてゐる
このふるへてゐる詩が
本当の詩であるか
この実こそ詩であらう
王城にひばり鳴く物語も詩でない

 西脇は「淋しさ」を定義している。「人の命よりも古い種子」、種子は「命の連続性、命のつながり」のことである。「淋しさ」は「命のつながり」、その「つながり」にある。
 名も知れぬ実のなかに「命のつながり」がある。そう認識するとき、その「つながり」は人間によって共有され、人間のものにもなる。つまり、それは「淋しさ」が人間のものにもなる、ということである。
 どこに、「命のつながり」を発見して行くか。そのつながりを発見し、そのかすかなつながりの「ふるへ」をことばに定着させるか。
 西脇にとっては、このとき「ふるへ」が重要である。(「ふるへ」のない連続性--それは、科学になってしまう。)「ふるへ」を残したまま、ことばにする。それが詩である。

 「ふるへ」。震動。それは、命の音楽でもある。「音」は空気の振動、「ふるへ」。

 「音」にこだわってみるとき、たとえば2行目「落葉」、6行目「枯木」はどう読むべきなのか。3行目に「枯れ枝」ということばが登場する。これは「送り仮名」があるから「かれえだ」としか読めない。
 「落葉」は「おちば」だろうか、「らくよう(らくえふ)」だろうか。私は「らくよう」と読む。そうすると、「さまよふ」と音が響きあうからである。「らくよう」「はやし」「さまよう」のなかでは、「あ」「よー」「さ行」が震動する。
 「枯木」も「こぼく」と私は読む。「かれき」だと「からむ」の「か」の音と響きあうのだが、「からむ・つる・くさ」の響きからは浮いてしまう。「こぼく」なら「ぼ」と「む」が唇と喉の奥で響きあう。濁音の深い豊かさが「む」「る」「く」のなかで響いてくる。
 西脇の濁音はとても美しい、と私の、喉や口蓋、舌は言う。



 「九」の「たんぽぽの蕾/あざみの蕾」は「十二月」には変だ、と私は、きのう書いた。
 「一〇」のなかで、西脇は「十二月の末頃/(略)/枯れ枝には既にいろいろの形や色どりの/葉の蕾がでてゐる」と書いている。そして、それについて、「これは都の人の知らないもの」と書いている。
 たしかに12月の末にはすでにいろんな木々に葉っぱの芽(西脇は蕾と書いている)がでている。それは私も目にする。しかし、やはり「たんぽぽの蕾(芽?)/あざみの蕾(?)」は、わからない。私は西脇の出身地・新潟の隣、富山の育ちなので、12月といえば(子どもの時代は)雪の中だった。たとえたんぽぽ、あざみの芽が土のなかに隠れていても気がつかない。見えない。だから、見たことがない。
 だから、「九」の「たんぽぽの蕾/あざみの蕾」は、私にとっては、やはり「現実」ではない。「音楽」のひとつだ。


最終講義
西脇 順三郎,大内 兵衛,冲中 重雄,矢内原 忠雄,渡辺 一夫
実業之日本社

このアイテムの詳細を見る