粕谷栄市は、あるような、ないような、どうでもいい(?)ことがらを、読点「、」の多い文体で書き綴る。そのあるような、ないような--、つまりほんとうはありえないことをことを書いているのだが、どうして、そんなことを書きつづけることができるのか。その「秘密」というか、そういう文体をつくりあげる「キーワード」は何か。
「丙午」と「幽霊」から探してみる。
まず、「丙午」。
若し、おれが、その丙午の歳、午の日、午の刻に生ま
れていたら、おれは、太鼓の午の皮を張る職人になる。
水呑み百姓の子沢山の家に生まれたおれは、十二歳か
ら、太鼓作りの親方について、撥棒で打たれながら、何
年もそのやり方を習う。二十四歳で、やっと一人前の太
鼓作り、それも専ら太鼓の皮を張る職人になる。
それからは、毎日、そのことばかりに明け暮れる。つ
まり、おれは、殺された午の皮を剥いでは、板に釘で打
ちつけ、干して、鞣して、さらに、それを裁って、太鼓
を張る仕事を、朝から晩まで、やるわけだ。
「午の皮」って、何? と思うことなんか許されず、「午」を信じ込まされて(おしつけられて?)、ことばの運動を追いながら、3連目で、そのことばの運動の「キーワード」に出会う。
「つまり」。
粕谷は、同じことを言い換えるのである。「丙午」に生まれ、太鼓の皮張り職人になる。ただ、それだけのことを、「つまり」を繰り返すことで、延々と語る。「つまり」は頻繁には出てこないが、それは書かれていないというだけのことであり、あらゆるところに「つまり」を挿入することができる。挿入してみれば、粕谷の書いていることが繰り返しであることがよくわかる。
たとえば2段落のはじまり。「水飲み百姓の……」の前に「つまり」を挿入すれば、2段落目が1段落目を、視点を少しずらして言い直しただけのことがわかる。太鼓の皮張り職人にならざるを得ないのは、水飲み百姓の息子に生まれたから云々というわけである。
粕谷はあらゆることばを省略された「つまり」で結びつける。それが省略されるのは「つまり」が粕谷にとっては「肉体」(思想)になってしまっていて、書く必要がないからである。無意識になってしまっているからである。
そうやって世界を少しずつ言い直していくとき、最終的に(?)、その世界はどんなふうになるか。
(この世に、午などという生きものが、その皮を張った
太鼓などというの物が、本当に存在するのだろうか。)
どこかで、でたらめな賽ころが転がって、その丙午の
歳、午の日、午の刻、結局、おれは、この世から消され
るのだと、そのときは、淋しく考えているのだ。
ふつう、といっていいかどうかわからないけれど、「つまり」とことばを重ねていくと、はっきりしなかったものがだんだんはっきりしてくる。わかるようになる。ところが、粕谷のことばの運動では「つまり」と言い直せば言い直すほど、世界は「幻」にかわっていく。
「つまり」の一瞬一瞬は、世界が断片的に見えるのだが、繰り返すと、それは消えてしまう。粕谷にならっていえば、そのとき、
つまり、
淋しさが残る。あるかないかわからない、「夢」が残る。「夢」こそが、「人間の淋しさ」だ。
人間の淋しさ--それは、「つまり」を繰り返してしまうところにある。「つまり」は他人に説明するようであって、結局、自分自身に言い聞かせることばだからである。自分に言い聞かせるからこそ、省略もされるのである。
「幽霊」の最後の部分。「淋しい」と書いたあと、次のようにつづく。
わずかに、願うことといえば、やはり、どこかの貧し
く心ぼそい一生を送っている男に、そんな小さな提灯の
ようなものの夢を見てもらうことだ。
つまり、一昔前のありきたりの絵草紙にあるように、
傾いて立つ墓石と風に揺れる枯れ芒の寒い優空に、ぽつ
んと、浮かんでいる古い小さな提灯の夢だ。
「つまり」につづくことばは、粕谷の「肉体」のなかにあることがらだけで成り立っている。だから、つづければつづけるほど、現実からとおざかる。つまり、現実ではなく「夢」になる。「夢」をみるしかない「人間の淋しさ」にたどりついてしまうのである。
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