誰も書かなかった西脇順三郎(18) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 『旅人かへらず』。その「一」。

旅人は待てよ
このかすかな泉に
舌を濡らす前に
考へよ人生の旅人
汝もまた岩間からしみ出た
水霊にすぎない
この考へる水も永劫には流れない
永劫の或時にひからびる
ああかけすが鳴いてやかましい
時々この水の中から
花をかざした幻影の人が出る
永遠の生命を求める夢は
流れ去る生命のせせらぎに
思ひを捨て遂に
永劫の断崖より落ちて
消え失せんと望むはうつつ
さう言ふはこの幻影の河童
村や町へ水から出て遊びに来る
浮雲の影に水草ののびる頃

 同じことばが何度も登場する。「旅人」「考へ」「永劫」「幻影」「永遠」「生命」。そして、その一連のことばは、互いに緊密に関係しながら「論理」を積み上げていくというぐあいには動かない。たがいに、そこで出会い、互いを照らしあう。
 そうしたことばのなかにあって、

ああかけすが鳴いてやかましい

 この1行だけが、まったく異質なもののように感じられる。そして、その「異質」であることによって、この1行がすばらしく美しいものに私には感じられる。
 それは思念のなかに、突然あらわれた「もの」である。
 その1行において、「やかましい」と書かれているのは「かけす」の鳴き声である。けれども、まわりの思念のことばとと対比した時、「やかましい」のは思念の方であって、かけすの方は逆に透明なくらい静かではないだろうか。
 「旅人」はかけすの鳴き声が「やかましい」という。しかし、かけすから見れば、「やかましい」のは旅人の思念の方ではないだろうか。「永劫」だの「幻影」だの「永遠」だの「生命」だのというものは、「頭」のなかにある。そういうものが動き回っている方が「やかましい」。かけすの声は、そういう「やかましさ」を浮かび上がらせる「自然」である。

 かけすの「やかましさ」のなかにある「静けさ」。かけすの「やかましさ」と同時に存在する「静けさ」。その「静けさ」を「やかましい」と言ってしまうときの「思念」の悲しみ。言わざるを得ない切なさ。
 西脇は、思念の動きと同時に、そういう情の世界を描いている。

 そのとき「淋しさ」はどちらに属することになるのか。「思念」の側か、情念の側か。そのどちらにも属さない。両方をつなぐものとして動く。



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