清野雅巳「武勇」は、ことばの動きがすっきりしている。
やくざ者なのか不良学生だったのかは定かではないが、昔、Sという人物がいて地元で語り草になっていた。この男はK崎にあるレストランで他のやくざといさかいを起こして越しにナイフを刺されたが、それを抜くことなく素手で相手をぶちのめしたといのうだ。ぼくの田舎はおおむね平穏なところだけれども、時どき何のまえぶれもなく暴力のうわさが広がることがあった。またそういうときに限って、時を経てわすれられたようよ見えても、ふとした拍子に人の口にのぼるのだった。
ぼくもそのようにして、父からこの話を聞いたのだが。
ことばの動きがすっきりしている--と書いたら、あとは感想を書くようなこともないのだが、この作品が私はとても好きだ。忘れていたものが、ふっと、浮いてくる。それは余分な装飾をもたず、最小限のものだけをひきつれて浮かび上がってくる。
そういう印象が、とてもいい。
たぶん、私は、そういうときの「最小限」の部分に共鳴しているのだと思う。書かれている「内容」ではなく、「最小限」のことば、その「最小限」というものに、清野の「思想」を感じ、それに共鳴している。
「最小限」のものは、あらゆるものに入っていくことができる。
まわりで、いろんな暴力ざたが起きる。それは、それぞれに違っているはずである。違っているのだけれど、その暴力のなかには、何か共通するものがある。「最小限」の共通項。最大公約数・最少公倍数。その、ふたつの運動を行き来するような何か。
1行だけ、ぽつんと放り出されている行。
ぼくもそのようにして、父からこの話を聞いたのだが。
「聞いた」が、もしかすると、この詩の一番いい部分なのかもしれない。「聞く」とき、何かがこぼれ落ちていく。そしてシンプルになる。その、最後に残ったもっもとシンプルなものがここにある。
それは「内容」ではない。「事実」ではない。
それは「聞いた」ことというより、「伝えていく」という「運動」である。
「聞く」、「聞いたことを伝える」、そのとき、ひとはついつい何かをつけくわえ、同時に何かを省略するかもしれない。それが繰り返されると、何か透明なものが残る。聞いて伝えるという「運動」そのものが残る。
その「運動」に触れたような楽しさを感じた。
ちょっとボルヘスを思い出したのだが、ボルヘスのおもしろさは、「内容」ではなく、何かを聞いてきて(取材してきて)、それを簡単に語り直すという「運動」にある。もっとも効率的、印象的に語り直す。
ことばとは、語り直すためにある--ということを思い出させてくれる。それがボルヘスである。あることを「語る」ではなく、「語り直す」。「事実・事件」ではなく、「事実・事件」として語られたことを、「語り直す」。どれだけ不純物を交えずに「語り直す」ことができるか。それを追いつづけたのがボルヘスだと思うが、そのことばの「運動」に似たものを感じた。
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細見和之「困ったときの瀬戸内寂聴」は入院している母に頼まれて瀬戸内寂聴の本を探しに行ったときのことを書いている。
この作品は、清野の作品の対極にある。
「語る」ということは逸脱していくということである。「語り直す」ということが「収斂」だとすれば、「語る」は逸脱である。
店の主人にもっと薄い小説はないか訪ねると、晴美名の『花火』という作品を探し出してくれた。帯には「めくるめく性愛の深淵をえがく」と書いてある。七一歳の病床の母親にとうてい手渡せるものではない。店主に事情を説明すると、今度は『寂聴 観音経』という本を見つけてくれた。まだそういう段階では、と口を噤むと、店主も苦笑している。
どこまでが「ほんとう」のことかわからない。「ほんとう」であるかもしれないし、「うそ」かもしれない。どっちにしろ、それは「語らなければならない」ことがらではない。どうでもいい。その「どうでもいい」ことを「わざと」書いている。わざと書くことで、詩が生まれる。
「わざと」書いているという意識に注目すると、最後の「オチ」がとてもよくわかる。
母は多少文学好きではあっても、本格的な愛書家というのにはほど遠く、まして創作などは思いもよらない。幼いときから聞かされてきた母の「夢」のひとつは、朝日新聞の「ひととき」欄に投書することだった。文章を書くのが苦手だし、だいいち自分の思いを他人に読まれるなど、恥ずかしくてたまらないのだろう。そのころの母の言葉が最近重く胸にこたえて仕方がない。
細見の書いているのは「創作」? 「自分の思い」? もし、恥ずかしさがあるとしたら、どんなかたち? 細見は読者にそれを創造させるだけである。その先を、だれか「創作」してみる?
この「意地悪」、頭のよさが生み出すトリックが細見のことばの楽しさだろう。
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