藤維夫「短い春」 | 詩はどこにあるか

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藤維夫「短い春」(「SEED」19、2009年06月10日発行)

 藤維夫「短い春」の書き出しの2行

さっきから過剰な地図を歩き
沈む夕陽の徒労のなかで水を飲む

 「過剰」と「徒労」の呼応がとても緊密である。その響きあいを強調するように「さっきから」と「水を飲む」というもう一つの呼応がある。「過剰」「徒労」が緊密な関係にあるのに対して、「さっきから」「水を飲む」はゆるやかな、あるいは「たわみ」を内包した響きあいだといえる。
 藤のことばは、こういう対比がとても美しい。
 そして、その対比がつくりだす「間」(ま)を、そのどちらにも属さないことばで埋めていく。

影はすでにすばやく走り
わずかにひとり取り残される
なんにも期待できないのに
期待することではないのに
はじめから夕日は夕日だったからくらくなる
ずっと道にそって歩けばいいのだ

 「なんにも期待できないのに/期待することではないのに」という繰り返しているような、繰り返すことを否定しているような、ことばの動きが、「間」の時間を濃密にする。こういう時間のすごし方を、藤は2連目で言い直している。

じぶんにしかわからないことばだけを呼吸して

 この1行がすごい。
 たしかに、詩とは「じぶんにしかわからないことば」なのだ。なぜなら、それはまだ「ことば」になりきれていないからだ。ことばになりきれていないものを、むりやりことばとして動かしてしまう。「むり」ということは「自分」を越えようとすることである。その「むり」のなかに、「自分」を越えるものがあり、それがきっと詩なのだ。

 「あとがきに」かえて、という副題のある(だれも知らないことだ)には、ことばしか越えるものがない人間の悲しみ、詩人の悲しみが透明な形でひろがっている。

やさしさが元気といっしょになって
山をずっと見つづけている
干し草をみたり牛舎と火葬場のあいだから
遠くの海も見える
みずからの薄皮を剥いでしまう
言葉だけの空虚が空に漂うのだ

 「牛舎と火葬場のあいだから」の「あいだ」がいい。藤のことばは、いつでも何かの「あいだ」を動いていく。「あいだ」で濃密になる。