北川朱実「小さな旅」ほか | 詩はどこにあるか

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北川朱実「小さな旅」ほか(「この場所ici」創刊号、2009年06月25日発行)

 北川朱実「小さな旅」は動物園での光景を描いている。赤ん坊に見つめられる「私」。その3連目。

(人は じっと見つめると陸地のようだが
(目をそらすと水たまりになる

 ほんとうかなあ。よくわからない。どうしたら、こんな風に感じることができるのだろう――そう考えていると、それにつづく連。

いくつかの小さな事があって
私は
動物園のヒョウの前にいた

檻の中に
ヒョウが一頭しかいないのは

獣と向きあうとき
人は たぶん
ひとりだからだ

 あ、これはいいな。わかるなあ。「人は」とあたかも客観的なことがらのように書いているけれど、ここに書かれているのは「私は」である。「私は」と書くべきところを、北川はわざと「人は」と書いている。
 「私は」と書かなければならないのに「人は」と書く。それには「いくつかの小さな事」が影響していることが推測できる。どうしても、そんなふうに想像してします。
 「私は」を「人は」と一般化してしまいたいのは、そのことが「私」に関係することだけれど、「すべての人」にと一般化すると、なんとなく「私」の問題が多くの人によって溶け込んで軽くなるような気がするからだろうか。
 そして。(この接続詞でいいのだろうか。)
 「私」をそんな風に客観化した瞬間、不思議な「主語」の入れ替わりが起きる。「私」が「人」になってしまったとき、突然「獣、ヒョウ」が「私」になる。「客観化した私」に「主観的な私」が反乱を起こす。激しく抵抗する。いや、「客観化されたくない私」というものが突然生まれてきて、その生きる「場」を求め、「獣、ヒョウ」に乗り移るといえばいいのだろうか。「私」の、たとえば「私の孤独」が「人」になって「ヒョウ」を見つめるなら、孤独な人に甘んじたくない私が「ヒョウ」になって叫び始めるのだ。

赤ん坊の目の中に
扉を一つ描いてやる

すると 突然
獣たちは
ひくく たかく
咆哮を繰り返し

赤ん坊は
声をかぎりに泣いた

 「扉を一つ描いてやる」の「やる」がいい。このとき「私」は「母」ではない。「女」だ。赤ん坊を、「赤ん坊」という性のない「人」ではなく、「女」「男」として見つめ、その「女」「男」に向けて、「私」のなかの「女」が叫ぶのだ。その叫びに、赤ん坊のなかの「女」「男」が本音で答える。まだ、それは「ことば」にはなっていないが、すぐ「ことば」にかわるはずだ。
 詩はつづく。

泣き声は
もうすぐ言葉にかわるだろう

きょう 私たちは
短針だけ傾けて
旅をしていたのだ

 「旅」は「私」が「人」に、「獣」になる「旅」だ。人間は、なんにでもなる。だから、「陸地」であったり、「水たまり」であったりもするのだ。「旅」に気づくときもあれば、気づかずに帰ってくるときもあるということだろうか。



 柿沼徹「コバヤシの内部」。この作品で、柿沼は「卵」になり「コバヤシ」という人間になってみる。「卵」「コバヤシ」に自分を仮託した瞬間、それが「私」そのものになる。ここにも「旅」がある。

ぼんやりした白い卵
せめて呼びかけてみたい
例えば・・・
コバヤシ、と呼んでみる
と、それは
見たことのない一個にみえる
手のひらのうえの
コバヤシの固さ
やわらかな重さ

コバヤシを床に落とす
コバヤシは落下のさなか、ま下に
今を見すえる

 「見たことのない一個」。ことばを動かすと、「見たことのない」何かが見える。それが「詩」という「旅」だ。

 青山かつ子「快復」も楽しい「旅」だ。大病で死にかける。でも、簡単には死なない。

どうやら死んだみたい
この世の見納めに薄目をあけると
白布が白菜の一葉になって葉脈をうきたたせている
(略)
急にのどが渇いて
白布がわりの白菜を食べる
シャキシャキとした歯触り
みずみずしいあおい匂い
ほのかな甘さ
を ゆっくり噛みしめる

 ふーん、遺体を覆う白い布を「白菜」と思ったことがあるのかな。



人のかたち鳥のかたち
北川 朱実
思潮社

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