水口京子「妊(はら)んだ蛇」ほか(「どぅるかまら」6、2009年06月10日発行)
水口京子「妊(はら)んだ蛇」は、一種の民話のような幻想。ことばの動きがやわらかい。前半部分。
にぶいうねり
うろこが艶めく
妊んでおるのかい
その胎に
児をば宿しておるのかい
そうやって
沼水の辺りを這いつづけて
ああ、おまえは
吾の児を妊んでおるのだな
いつかあのユメのうちに
おまえはわたしの白い胸の谷間に絡まりついて
乳をのむ仕草をしたよなぁ
幾度も。幾度も。
夢の中の出来事が関係している。蛇は「わたし」の分身なのだ。身内なのだ。そのせいなのだろう、「おるのかい」「おるのだな」「したよなぁ」という気楽な口調でことばが動く。その響きの影響で、書かれている内容が異様であるにもかかわらず、ゆったりとした気持ちで読んでしまう。
ほんとうは、「わたし」が「蛇」になりたいのだ。欲望が書かれているのだ。欲望だから、やわらかく伝えたいのである。
おまえたちは不可思議な生きモノだな
強い魂に感応して妊む
女に感応して雌が妊む
妊んだ蛇よや
乳のやり方を知っておるかい
うまれたら
連れてくるといい
この白い乳房を
おまえの児に授けてやろう
―――――――他言無用ぞ
女の強い魂を妊娠し、出産したい。そのためになら「蛇」になる。そして、その生まれた強い魂を育てたい。女の強い欲望。「他言無用ぞ」がいい。自分に言い聞かせているのである。民話のような「語り」の世界に昇華させて、ゆっくりと「本音」をしのばせる。
*
斎藤恵子の「音連れ川」にも「民話」のようなにおいがある。「るるっるるっ石が交叉するたび川が深くなっていく」の「るるっるるっ」がとても楽しい。水の力で石がまるくなっていく。そして、その丸くなるまでの長い時間のなかに、「女」の時間が堆積してゆく。長い時間のなかで、女も、水も、石も「るるっるるっ」という音の世界で溶け合うのだ。
わたしは手を合わせることも忘れ淵を覗く
ささの葉が舞いさがる
ササブネ
ササブミ
サザナミ
女の子たちは振り向いて
わたしを見た
耳たぶをタニシに換え
しろい石あかい石ふるえている
「音」を中心に、ササブネが違うものになる。「語り」の力である。「語り」は「騙り」かもしれないが、楽しい話ならだまされるのもいい。詩は現実ではなく、ことばの可能性なのだから。
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