坂多瑩子『お母さん ご飯が』 | 詩はどこにあるか

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坂多瑩子『お母さん ご飯が』(花神社、2009年06月25日発行)

 坂多瑩子『お母さん ご飯が』は介護の日々をことばにしている。どきりとすることばがでてくる。「いらない」の前半。

あちこちから
いろんなものがはみだして
机の上から下から
コンパスとかチョコレートとか
母さんがあたしに文句を言っているみたいに
くしゃくしゃ
はみだしてきて
そんなとき
ものすごくあかるく咲いている花 見つけた
それで
もうすぐ母さんは死ぬ
と思った
母さんは
おかゆだけれど今朝もちゃんとご飯を食べて
トイレに行ったしテレビだって見てる
花は
たった一輪 それでも
母さんは死ぬんだって
あたしに思わせた

 「母さんは死ぬ」。そのことばが、まるで、コンパスやチョコレートのように、坂多の「肉体」からはみだしている。どこにそんなことばがあったのか。隠れていたのか。ほんとうはコンパスのように、机の引き出しの中にきちんとしまっておいたはずのことばなのに、それが、気がついてみるとふっと、はみだしている。
 こうしたことばを、正直に書くのはとても難しいと思う。
 不謹慎だから、というのではない。ことばというのは不思議な力をもっている。ことばにしてしまうと、現実がことばに合わせて動いてしまうということがある。「死ぬ」と言ってしまったから、死ぬのである。そして、あああのとき「死ぬ」なんてことばをいわなければよかったと後悔したりする。
 その一方、ことばのそういう不思議な力を逆に動かしたいという思いが誰のこころにもある。
 ことばにすれば、それが現実になる。そういしことは、たしかにあるけれど、一方で、ことばにしてしまえば、現実の方が、ことばなんかにひきずられないぞ、と反抗して、ことばどおりに動かないということもある。ことばどおりに現実が動くとしたら、そのことばを発した人は「超能力」をもっている。私はそういう能力をもっていない。だから、ことばにすればするほど、現実は遠くなる。--こういう場合の方が多い。ことばを裏切るのが現実なのだ。だから、「夢」はいっこうにかなわない……。そういう経験(?)というものにすがるようにして、あえてことばにする。
 「母さんは死ぬ」。言えば言うほど、それは「現実」ではなくなる。いつまでも母さんは生き続ける。だからこそ、「母さんは死ぬ」と2回書いてしまう。そこには、祈りがある。ことばが、現実によって裏切られてくれますように、という祈りがある。
 だから、この詩は美しい。「母さんは死ぬ」と書きながら、不思議な美しさをたたえている。

 けれど、ほんとうは、どちらがほんとう思いなのか、坂多にはわからないと思う。わかるのは、現実に母が死んだときだけだ。(こんなこと、つまり、お母さんの死について、他人の私が書いてしまうのは、なんだか申し訳ないことなのだけれどけれど……。)そのことは、坂多にはわかっていると思う。いまは、どちらなのか、わからない。わからないから、書かずにはいられないのだと思う。
 書くことで、何かを「はみださせたい」。はみだすものを見て、いまという瞬間に立ち止まりたいのだと思う。いま、を書くことで、しっかり時間を見つめたいのだと思う。死というのは、自分の死の場合、絶対に体験できないことというか、体験した瞬間に何がどうなったかわからないものに違いないが、それが他人の場合もまた同じである。「死んだ」ということはわかるが、死んでどうなったかは、わからない。生きているときのことしかわからない。
 そして、生きていくということは、何かを「はみださせつづける」ことなのだ。
 そして、その「はみだしたもの」は、だんだん、うまく整理がつかなくなる。もとの「引き出し」に戻ってくれなくなる。

母さんはときどきまだ文句を言う
言葉にすると
ひとつかふたつ
前みたいに
いろんなものがくしゃくしゃ交じりあわない
とってもシンプル
どこかでひょいと
ご飯もトイレもテレビもいらない
もういらないって
いらないよ
いらない
いらない
いらない

 「いらない」。それは、悲しい願いだ。「引き出し」(ということばを坂多がつかっているわけではないのだが、「机」から、私は「引き出し」を連想してしまう)に何もしまい込まなければ、はみだすものもない。もう、はみださせたくない。だから「いらない」。
 この「いらない」の繰り返しが、なんとも切ない。

 この詩で、もう一点。「もうすぐ母さんは死ぬ」の前に、とてもすばらしい行がある。「母さんは死ぬ」ということばについたとき、ほんとうは、この行から書きはじめるべきだったのかもしれない。

ものすごくあかるく咲いている花 見つけた

 これは、普通の日本語で書けば「ものすごくあかるく咲いている花を見つけた」になる。けれども坂多は「を」を省略している。助詞「を」をきちんと補って(?)ことばを動かす余裕がなかった。
 花をみつけた。あかるく咲いている花を見つけた。それと同時に「もうすぐ母さんは死ぬ」ということばがやってきたのだ。はみだしたのだ。
 正確な(?)日本語なら「を」が必要である。けれども、意識の動きは、日本語として正確であるかどうか(学校国語どおりであるかどうか)など気にしない。そういうことを追い越して動いてしまう。そして、この意識を追い越して動くことばの、その動きそのものが、「はみだす」ということにつながっている。「はみだす」というのは、正しくあろうとする意識を追い越す何か、その追い越しという運動の中にある。
 ことばは、私たちを追い越すことがあるのだ。
 それは現実を追い越すことがあるということかもしれない。ことばが先にあって、それを現実が追いかける。「母さんが死ぬ」といえば、現実がそのことばを追いかけ実現してしまう。そういうことがありうる。
 だからこそ、ことばが現実を追い越してしまわないように、追い越してしまったなら、そこで踏みとどまって、現実が急いで追いかけてきて、さらにことばを追い越してしまわないようにしなければならない……。

 この詩では、ことばと現実が、そんな具合に互いを牽制しながら動いている。