牟礼慶子『夢の庭へ』はどの詩も美しい。相聞とはこういうことかと、あらためて思う。「ほのかな紅を」の3連目。
別れの手も振らず
背中を抱きもせず
わたしの夢の中だけで
静かに生き続ける人よ
夢の中では
ひとりとひとりきりになって
わたしはあなたに寄り添っています
人が生きるとき、そこには複数の人がいる。けれど、「あなた」と会うときは、それぞれが「ひとりきり」なのだ。ひとりとひとりが会えば「ふたり」というのが算数の世界だけれど、「ふたり」になってもふたりはひとりきり。このひとりきりはかけがえのない「ひとり」である、ということだ。つまり、「あなた」に会ったとき、「わたし」はもう「わたし」ではない。ただ「あなたに寄り添う」だけの人間。「寄り添う」ことで、「わたし」をではなく「あなた」を生きるのだ。きっとそのとき、「あなた」はやはり「わたし」に寄り添って「わたし」を生きている。ふたりはふたりであることによって、いっそう「ひとりきり」になる。
そこでは、ことばは、どんなふうに動くのだろう。それは、「ことば」にはならない。ことばになる必要がない--と言い換えるべきか。
枝を揺すり続けている
せわしない時間のいとなみ
夢の残像のように
すぐに消えてしまう言葉で
あなたは絶えず語りかけてくれます
今もわたしを呼び続けていてくれます
あなたもどうぞ聴きとってください
わたしがあなたを呼び続ける声を
わたしの梢を吹き抜ける風も
わたしの空を流れる雲の列も
どれも
あなたが贈ってくださる
何よりも懐かしい挨拶なのです
「すぐに消えてしまう言葉」。その「声」。それは、風や雲となって動いている。風や雲は「ことば」をもたない。もたないけれど、その動きが「言葉」となってとどく。
風を見ても、雲を見ても、「あなた」がそこにいることがわかる。風を見るとき、風を見る「わたし」に「あなた」が寄り添うが、それはほんとうは、風を見る「あなた」に「わたし」が寄り添っているのだ。
何か見ること--その「こと」のなかで、ふたりは「夢の中」と同じように寄り添い、互いを生きている。「ひとりとひとりになりきって」いる。
そのと、見たものすべてが「懐かしい挨拶」になる。
この「言葉にならない言葉」を牟礼は「沈黙」と呼ぶ。「ことば」をかわさない。そして、ことばをかわさないことが、ことばをかわすことなのだ。かわさなくても、わかりあえる。挨拶をしあえる。それが愛である。
内なる沈黙を
少しずつ染めている花の蕾
その まだほのかな紅色を
たくさんの言葉の蕾を
わたしは あなたに贈り続けます
ことばは沈黙と向き合い、そのなかで「言葉」になる。いや、「愛」になる。「言葉の蕾」を贈るのではなく、「愛の蕾」、「愛」そのものを贈るのだ。「贈り続ける」のである。
そして、この「続ける」にこそ、ほんとうの愛がある。
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