安英晶『虚数遊園地』(3) | 詩はどこにあるか

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安英晶『虚数遊園地』(3)(思潮社、2009年05月31日発行)
              
 安英晶『虚数遊園地』は2部構成になっている。17日、18日にとりあげたのは「Ⅰ あそび場から」。ことばの響きがやわらかくて、その分「死のにおい」もやわらかくて、遠く誘われる感じがする。
 「Ⅱ 遊園地」は、1行のなかの複数の時間が、「Ⅰ」よりも意識的かもしれない。「Ⅰ」では無意識なやわらかさがあるけれど「Ⅱ」には意識化された正確さがある--というか、正確を狙って書いている部分があるように感じられる。1行のなかにおさわりきれない「時間」は行を分けて書かれる。
 その結果、1行のなかの複数の時間と、複数の行なかのひとつの時間(複数の行であることによって、複数の時間になるもの)の2種類が混在する。
 そして、詩が複雑化する。「複雑化」が公式化(?)され、つまり、手慣れてきて、「現代詩」化する--と、言い換えることができるかもしれない。
 「観覧車」という作品。

夜の観覧車の暗い箱では誰もがひっそりうつむいている
(そう/ひっそり/鏡面の奥を覗いてしまったかのように/ひっそり と
深夜の観覧車はきまって片側だけが満員で 満員であっても
どのゴンドラもまるで規則でもあるように乗り合わせているものはいなく
(その人たちは どこかもうひとつの場所で眠っているらしいのだが
(切れ味がよくない ねむりの
(ああ 今朝の 火を通しすぎたハムエッグ あれのせいだ

   また/きている の/ね

その朝 初潮をみた痩身の少女が
あおじろい顔で ぼーっと うつむいて
ときどき反対側の座席に座ったりして 落ち着かない

 「(そう/ひっそり/鏡面の奥を覗いてしまったかのように/ひっそり と」という行は、「/」によってむりやり、つまり意識的に「時間」を引き出そうとするが、うまくいかず、「現代詩用語(?)」の「鏡面の奥」ということばをへて、「ひっそり」が繰り返される。そこでは、「時間」を引き出そうとする「意識」だけがある。
 この「意識」が過剰になると、1行ではおさまりがきかず、複数の行になる。
 「(その人たちは」からの3行が象徴的である。丸カッコは開かれたまま、閉じられない。並列に置かれ、並列におくことで「時間」を、行に対して(行にとって)垂直ではなく、水平にひろげる。「時間」が「時間」のまま、「場」にかわるような印象がある。1行のなかで時間が噴出するのではなく、水平にずれながら、そのずれた位置で「時間」が立ち上がる。
 そういう操作をすることで、ことばが、不思議なことに孤独になる。水平にひろがることで、連帯が生まれるのではなく、逆に、行と行とのあいだに「間」ができる。広がりができる。その広がりが「1行」を孤独にする。
 すると、不思議なことがおきる。孤独な行、孤立した行のなかで、「時間」が噴出するのである。

   また/きている の/ね

 ほーっと、息をのむほど美しい。
 ああ、これだったんだな。「Ⅰ あそび場」の美しさは、孤独な行のなかから、その孤独をうめるようにして(あるいは突き破り、破壊するようにしてといえばいいのだろうか)、噴出する「時間」だったのだ。
 1行1行が孤独だったのだ。そこから美しさがはじまっていたのだ。

 「初潮をみた痩身の少女」というような70年代(60年代?)の「現代詩」のようなことばは私は好きではないが、「また/きている の/ね」の呼吸の美しさゆえに、そうか、やっぱり少女でないとだめなのか、とも思ってしまうのだ。「初潮をみた痩身の少女」でも、いいか、と思ってしまうのである。
 「初潮をみた痩身の少女」のようなことばが、どこかへ消えてしまうと、きっと「Ⅱ」も楽しく読むことができると思う。
 「コーヒーカップ」の、

ぽこっ ぽこっ ぽこぽこ ぽこっ

おやっ
あそこで死んだねえさんがひかっています
(ついとあっちのほうから
(透明な手足をのばして

という行がもっと美しく感じられのでは、と思ってしまう。

 「Ⅰ」の部分は★5個、「Ⅱ」の部分は★3個、という印象。★5個を最高と評価してのことだけれど。(映画の評価のときの基準でいえば、ということだけれど。)



虚数遊園地
安英 晶
思潮社

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