『田村隆一全詩集』を読む(114 ) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 「合唱」。タイトルは「合唱」なのだが、書いてあることは「眼」についてである。

眼は泥の中にある
眼は壁の中にある
眼は石の中にある
眼は死んだ経験の中にある しかし
われわれの中にはない!

 この「眼」とは何か。「肉眼」か「眼」。その区別もつかない。2連目を読むと、さらにわからなくなる。

その眼は沙漠なのかでしか生きてこなかつた
その眼は時間よりも空間だけした瞶めてこなかつた
その眼は近代生活の倦怠と現代の内乱のうちに閉ざされて
深夜都会の窓とドアとベッドのかげで
月光と死と破滅の意味でみたされる眼

 「眼」は何をみつめるべきなのか。何を目撃しなければならないのか。「その眼は時間よりも空間だけした瞶めてこなかつた」を中心に考えれば、「眼」は「空間」よりも「時間」をみつめてこなければならない。けれど、それはみつめてこなかった。
 そして、それは「近代生活の倦怠と現代の内乱のうちに閉ざされて」いる。1連目と関連づけると、「泥」「壁」「石」が「近代生活の倦怠と現代の内乱」になる。「中にある」と「閉ざされている」は同じ意味になるだろう。同じ意味を言い換えたものだろう。
 それは求められている「眼」なのか。
 求められている「眼」のようには考えられない。
 しかし、その「眼」について、田村は「われわれの中にはない!」と書いている。その「眼」が求められているものではない「眼」、否定的な「眼」であるなら、「われわれの中にない」と言う必要はない。「われわれの中にある眼」とはいったいどんな「眼」なのか。何をみつめているのか。
 3連目。

それは その瞳は思いきり開かれて驚愕と戦慄と反問にみちみちている
それは俺の父の眼である
それは血と硝煙と叫喚のなかで存在の形式と
  有機的壊滅を目撃した男の眼である
それは或る不幸な青春が彼の属している国家の
  崩壊を見なければならなかつた眼である
それは彼の全経験の詩を確認した眼である
それは「私」の眼であつてしかも「我々」の眼である

 括弧でくくられた「私」と「我々」。ここに田村が言いたい何かがある。それは「俺の父」につながっている。「俺の父」と「私」と「我々」。それは「われわれ」とは無関係なものである。「我々」と「われわれ」は別なのだ。
 そうなのだ。田村は、「俺の父」につながる眼を拒絶しているのだ。「われわれの中にはない!」それは「われわれ」へとつながったこようとする。「われわれ」の誰かも、そういうものを求めるかもしれない。けれども、田村は、それを拒絶する。そういう人間を「我々」と括弧でくくることで明確にし、その眼を排除しようとする。

眼は火と医師と骨の中にある
眼は死んだ経験の中にある しかし
われわれの中にはない!

 これは、「戦後」からの「独立宣言」というべきものかもしれない。「俺の父」に代表される男たちの「眼」がみつめてきた何か。それはそれで貴重なものかもしれない。けれど、田村は、それを引き継ぐのではなく、田村自身の「肉眼」で世界と向き合おう、向き合いたいと宣言している。「俺の父の眼」ではなく、それとは断絶した「肉眼」で世界をみつめたい、そういう「われわれ」を目指しているのだ。
 「戦後からの独立宣言」はまた「肉眼宣言」でもある。

 タイトルが「合唱」となっているのは、その思想を田村個人のもではなく、「われわれ」の声にしたい、という思いがあるからかもしれない。



詩人からの伝言
田村隆一/長薗安浩
メディアファクトリー

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