『田村隆一全詩集』を読む(112 ) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 「目撃者」は複雑な詩である。

かたかたと鳴つていたつけ 石が
固い表情を崩さずに待つていたつけ 僕が
石の中で不意に動くおまえの眼
かつて僕のものであつた正確な眼が いまでは逆に僕を狙う

 ここに登場する「おまえ」と「僕」の関係が複雑なのである。「おまえの眼」は「かつて僕のものであつた正確な眼」である。「おまえ」と「僕」はどこかでつながっている。重なっている。そのことが、この詩を複雑にしている。
 「僕」と「おまえ」がつながっていること、重なっていることは、次の行でもはっきりする。

僕が倒れる そこでおまえが僕の背中を抜けていくという仕組なのだ

 「おまえ」は「僕」のなかにあって、「僕」が倒れたとき「僕」から「抜けていく」、つまり出て行く。「おまえ」は「僕」にとっての「真実」なのである。だからこそ、

どうかおまえが考えるように僕にすべてが感じられるように

 という行も生まれる。
 この詩を複雑にするのは、さらに、別の「男」が登場してくるからである。それは「僕は何かを書いているのかも知れない 不眠の白紙をひろげて」というときに、あらわれる。書いているとき、あらわれる。もうひとりの「僕」ということになるかもしれない。
 そして、その「もうひとり」の「僕」である「男」は、さらに別の人間を引き寄せる。

どれもこれも見飽きた眺めだね その男は窓を閉めながらぼそぼそ呟きはじめる
あいつにしたつてそうだ 男は同じ調子でつづける
あいつとは一体誰のことだ 僕は思わず反問する
狙われているのです あいつは しかし或いは…… 男は僕に背中をむけたまま口ごもる
何のことだ 君は何を言おうとしているんだ 訳もなく僕は苛立ちはじめる
私には言えない 何も語れない 瞶めることです あなたの眼で!

 「あいつ」「君」「私」(引用のあと「わたし」も登場する)の関係は? そして、それと「僕」と「おまえ」の関係は?
 複雑にしたまま、もう一度、それが複雑になる。

窓の外で僕は立ち止まる
窓の内側のあの二人の男たちは何を話しあっているのだ
ここでは彼らの言葉が聞こえない

 「僕」は部屋の中で「何かを書いていた」のではないのか。いつの間にか、「僕」が入れ代わっている。そんなふうに、簡単に入れ代わるのなら、それまでの「ぼく」「おまえ」「あいつ」「男」「君」「私」「わたし」も入れかわっているかもしれない。
 でも、入れ代わるとは、どういうことだろう。

おまえの手は震えている だがおまえの眼だけは正確だ
僕は信じる 狙いは決して誤またず一分の狂いも生じまい そういう確信がかえつておまえの手を震わせる
何事が起こらねばならぬ いまは引金をひく時だ
見たまえ!
男は窓際まで歩いてくる 男がもう一人の男に重なる瞬間を待つがいい
最上の瞬間! 美しい幻影が僕の背中を過ぎ去らぬうちに捕えること
僕は信じるだけだ かつて僕のものであり いまではおまえのものである正確な眼を

 「男がもう一人の男に重なる」の「重なる」。「入れ代わる」のではなく、「重なる」のだ。そして、その重なったものを一気に破壊する。
 向き合うもの、たとえば「僕」と「おまえ」。その向き合いかたを「矛盾」と読み替えると、田村の考えていることがわかる。向き合っている「僕」と「おまえ」は、向き合うことで、いっそう「向き合う」かたちを増やしていく。「僕」も「おまえ」も増殖する。その分裂(?)を増殖させるのではなく、「重ねる」。そして、それを一気に狙撃する。破壊する。そのとき、何かがはじめて生まれるのだ。
 そして、その「狙撃」につかわれるのが、「石」、つまり「肉眼」である。すべての「僕」、「僕」から増殖するすべての人間を「重ね」、否定する。そのあと「肉眼」だけが残る。
 田村は、その「肉眼」を熱望している。





5分前 (1982年)
田村 隆一
中央公論社

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