『田村隆一全詩集』を読む(103 ) | 詩はどこにあるか

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 『ロートレック ストーリー』(1997年)はロートレックの「肉眼」を田村が語り直したものである。

男は少年期に
両脚の病で小人(こびと)になったが
上半身の肩や胸はたくましく 十字軍以来の
貴族の血が流れていて

そのおかげで独自のアングルが生まれる
貴族の血にうんざりしてブルジョアにあこがれる
ブルジョアとは市民のことさ 低い視線から
人間を瞶(みつ)めると肉だけが見えてきて

 ここには田村が大好きな「矛盾」がある。萎えた両脚、頑丈な上半身。貴族、市民(庶民)それは互いに互いを否定する。そこに必然的に「結合」ではなく「分離」が生まれる。亀裂が生まれる。しかし、それは、ほんとうは亀裂という名の結合なのである。遠く離れたふたつの存在形式の「間」、そこに「間」があることによって、その「間」を埋めるものが誕生することが可能になる。
 その「間」に生まれてくるもの--それを「肉」と見るのが田村の特徴である。

おびただしい心は男の胸の中に集中する
まるでムーラン・ルージュの赤が
黄色にかわり 第一次世界大戦後には黒になって
男の心の墓地になったように

 見えるのは肉。「肉眼」が見るのは「肉」である。そして、そのとき、「心」は、ロートレックの肉体(胸)のなかに押し寄せる。「肉」を見ることで、「心」を吸収してしまうのだ。
 それは別ないいかたをすれば、「肉眼」からさらに「肉・体」になり、あらゆるものを「肉」として受け入れるということかもしれない。「肉」と「肉」が直接触れ合う。「心」というものなど、消えてしまう。「心」の拒絶が、ここにはある。「心」は「墓地」のなかで忘れさられ、腐敗していく。そうして、「肉」は「肉」として完成する。
 あらゆるものが「肉」として直接触れ合うのである。

だから夕暮れになるとアトリエから脱走して
モンマルトルの寄席 居酒屋 淫売屋
山高帽と肉だけになった市民の群れのなかに
出没する 重いステッキに心を支えながら

この世の外(そと)なら
どこだっていいさ
どこだって

 「どこだっていい」。これが「矛盾」の行き先である。「どこだっていい」というよりも、「どこ」と前もって決めることができないのである。前もって決めるのは「心」(あるいは「頭」)であって、「肉・体」は何も決めない。決めないまま、そこに「肉・体」があることをたよりに、ただ「いま」「ここ」ではない「場」へと動いていくのである。そして、いっそう「肉・体」になる。
 そういう運動を、田村はロートレックのなかに見ている。そして、その体験を田村はことばで語り直している。



もっと詩的に生きてみないか―きみと話がしたいのだ (1981年)
田村 隆一
PHP研究所

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