『田村隆一全詩集』を読む(97) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 「第八景 夜の江ノ電」。この作品には「江ノ電について」という注釈がついている。その最後の部分。

 その景観は、小さなカーブをいくつも曲がりながら家の軒先・生垣をかすめ、車と並んで路面電車になり、湘南の波を眺めながら海岸線を辿り、やがて高架鉄道にもなる。
 古都鎌倉の新しい情緒である。

 「新しい情緒」。「夜の江ノ電」から見える風景、そして、その風景を見て動くこころの動きを「新しい情緒」と田村は定義している。
 具体的に見るとどうなるか。田村が描いた「夜の江ノ電」から何が見えるか。

腰越は鎌倉という村の入口で
ここまででポルノのポスターやブス猫はおしまい
江ノ電は
まず高架鉄道を走り
それから
路面電車にかわり
ポルノのポスターの可愛いお婆ちゃんに別れをつげると
文化人が住んでいる
鎌倉村に入っていく
たった十キロの藤沢-鎌倉の距離で
よくも文化村と云ったものだ
ぼくは
人の顔と別れをつげて
腰越から
鎌倉に入る

 ポルノのポスター、しかも可愛いお婆ちゃん。それはアンバランスである。アンバランスというのもひとつの「矛盾」である。調和とは正反対にあるもの。その「正反対」という感覚を引き起こすものが「矛盾」である。
 アンバランスは、感覚を覚醒させる。少なくとも、既成の感覚、美意識というようなものをひっくりかえす。そのとき、いつも見ていた風景も新しくなる。
 「新しい情緒」と田村がいうとき、重要なのは「情緒」ではなく、「新しい」である。そして「新しい」ものには「情緒」があるのだ。

ブンカジン大嫌い
夜の海が前面にひろがる
漁火が見える 小さな灯台の光が見える
相模湾の黒くて青い水平線

 「大嫌い」が田村の視線を「ひと」から遠いものへと引っぱっていく。それは「大嫌い」によって、「新しく」洗われた風景である。誰もが見る風景も、「大嫌い」という気持ちといっしょに見ると違ったものに見えてくる。「新しく」なる。

こんな愉快な村はめったにない
宗教法人税法のおかげで
説教したがる坊主に
妾が四人もいるとは
ちっとも知らなかった 夜の江ノ電の
窓から見える
白い波頭 夜のなかの

白い波頭
乗客は
ぼく一人

 「新しい」はまた「知らなかった」ということでもあるのだが、その「知らなかった」は実は知っていたということでもある。「坊主」が「妾を四人もっている」というような世界、そういうものがあることくらい田村は知っている。そういうことは話にも聞けば、本でも読んだことがあるだろう。そういう知っているはずのことが、「大嫌い」というアンバランスのなかで、もう一度見えてくる。
 その、もう一度見えてくる、ということが詩なのである。
 「新しく」というのは、実は「古い」ものがもう一度見えてくるということである。「古い」もののなかには、なにかしら「気持ち(感情)」というものが残っている。それが「新しい」何かに触れて「情緒」を引き出すのである。「情緒」というものは、たいていが「古い」。いわばなじみのあるものである。それがアンバランスな何かによって洗い清められ、「新しく」なる。
 「古い」ものが「新しくなる」というのも、矛盾である。矛盾だから、そこに詩がある。

 「ちっとも知らなかった」以後の、「1字あき」、行わたり、改行--その、いっしゅのぎくしゃくとした動き、ぎくしゃくのなかに、「新しい」ものがある。ぎくしゃくが、既成のものを新しくする。
 田村は、なめらかさではなく、ごつごつした「手触り」を好む。なめらかにことばが滑っていくのではなく、滑ることを拒否して動くことを好む。滑ることを拒むたびに、ことばは、そこで抑制されたエネルギーをため込み、爆発するのである。そういう動きを、田村のことばはめざしているように感じられる。

 最後の1行、「ぼく一人」がとても美しい。



靴をはいた青空〈3〉―詩人達のファンタジー (1981年)
田村 隆一,岸田 衿子,鈴木 志郎康,岸田 今日子,矢川 澄子,伊藤 比呂美
出帆新社

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