『田村隆一全詩集』を読む(96) | 詩はどこにあるか

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 「第六景 さかさ川早春賦」。「さかさ」というのは、一種の「矛盾」である。1連目には、次の形で書かれている。

水仙の花はいつのまにか消えた
春の雪が降って
その雪が消えたら
クロッカスの小さな花が咲いた
民家の庭に
冬のあいだじゅう一羽で棲みついていた
単独者のジョウビタキも
氷の国へ帰ってしまった
この単独者は
立ち去ることで日本列島に

がきたことをぼくらに告知する

 クロッカスは咲くことで早春を告げる。やって来ることで何かを告げる。存在が何かを告げる--ここには矛盾はない。ジョウビタキは去ることで春を告げる。不在が何かを告げる。これは「矛盾」である。不在のものは何も告げることはできない。不在のものが、どうやって、「いま」「ここ」にいる誰かにむかって何かを告げるというのは「矛盾」である。「不在のもの」と「存在するもの」は同時には存在し得ないからである。
 この論理は、次のように言い換えると、「矛盾」ではなくなる。「不在のもの」(いままでここにいたが、いまはここにいないもの)は、その存在するということを別の存在に譲ったのである。「不在のもの」のかわりに「別の存在」がいま、ここにいて、その交代した何かが、何事かを告げる。
 だが、田村は、その交代したものを、ここでは明確にしていない。だから、それは「矛盾」したままである。こういう「矛盾」が田村は大好きである。
 だからこそ、「さかさ川」という存在に目を向ける。

ぼくは下駄をはいて
小町から大町の裏通り
安養院のそのまた裏の小路を歩いていくと
緑の血管のような
細い川が流れていて
土地の人は
さかさ川と呼んでいる
昔は
海の潮が逆流してきたのでそんな名前が生まれたのだという
その川をさかさに歩いていくと
小さな飲み屋があって

 川は山から海の方へ流れる。その流れが、潮のために逆向きのために「さかさ」になる。この「さかさ」のなかにも「矛盾」がある。もちろん、「潮」を主語にすれば「矛盾」は消えるが、「川」が主語であるかぎり、それは「矛盾」である。
 そして、この「矛盾」は、ジョウビタキが不在であることによって春を告げるというのといくらか似ている。山から海への「流れ」が不在であり、それにかわって「潮」が「不在」を埋めるようにして、海から山へ流れる。
 そうなのだ。
 田村の「矛盾」は、単に、ある存在の不在を何かが埋め合わせ、何かを語るだけではなく、いままでそこにいたもの(そこにあったもの)の動きそのものを逆転させるのである。
 ジョウビタキは「冬」を連れてきた。それが不在であるとき、何かは、その冬のやってきた方向へ逆に突き進み、そうすることで「春」を告げる。
 この動きを明確にするために、田村は「さかさ川早春賦」の1連目にジョウビタキを書いたのだ。1連目がなくても、「さかさ川早春賦」の「本論」(?)の部分は、少しも変わらない。ことばの動きがかわるわけではない。「さかさ川」で言いたいことを、1連目で少し披露しているのだ。あらかじめ、「幅」をもたせているのだ。「矛盾」をさりげなく、ここにも、こんなふうにして「矛盾」がある、と教えているのだ。

 そして、その「矛盾」に重ね合わせるようにして、田村は、飲み屋であった経済学博士との談話を書きつないでいく。

日曜日の午前十時ウサギ博士から電話で呼び出されて
ぼくはさかさ川をさかのぼり
居酒屋にたどりついたのだが

なんのことはない
鎌倉の八甲田山のてっぺんのウサギ博士の
自宅の奥さんと娘さんが恐いものだから
ぼくを共犯者に仕立て上げるこんたんなのだ

人間には
どこか悲惨で滑稽なところがある
どんな人間の心の中にも
さかさ川は流れているが

 「人間の心の中にも」、ある方向を「わざと」逆に動くものがある。そして、それは「わざと」そんなふうに動くことで、この世界の流れが、正反対のものがいっしょに存在することで成り立っている。「矛盾」があるから、おもしろく動いていると、田村は考えているのだ。
 「矛盾」は、いつでも田村の思想なのだ。

 この詩にも、注釈がついている。この注釈も、また、非常におもしろい。

「さかさ川」という名前が、ぼくには気に入っている。そして、「さかさ川早春賦」というぼくの詩が、ぼくは大好きだ。しかし、そのかわりに、ウサギ博士のご夫人から、ぼくはしかられて、いまでもご夫妻には頭をさげて歩いている。

 原文の「ぼくは大好きだ」の「ぼく」には傍点が打ってある。「ぼくは」大好きだが、そうでない人もいる。つまり「ウサギ博士のご夫人」は、この詩が好きではない。「ウサギ博士」が奥さんを恐がっている、と書いたからだ。詩に書かれたことがいやなのだ。
 でも、田村は、この詩が好き。
 ここにも、「さかさ川」と同じような、どうしようもない「矛盾」がある。ジョウビタキの不在が春を告げるというのは同じような「矛盾」がある。
 ウサギ博士夫妻は、この詩が嫌い。でも、田村が、この詩が好きであるように、私もこの詩が好き。嫌いなものがいて、その「嫌い」という流れを「さかさ」に動いていって、私はウサギ博士に会う。彼ら夫婦に会う。田村に会う。

 田村の「矛盾」は、こういうことも含む。





青いライオンと金色のウイスキー (1975年)
田村 隆一
筑摩書房

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