「肉眼」とは「直接的な目」である。それは、「愉快な対話」のなかの、「目」に関する部分を読むと、よくわかる。
あの
顔みたいなものに張りついている丸い穴は
何ですか
二つありますね
一般的には目と呼んでいますが
形だけは目ですが、じつは
何も見えないのです
カメラのレンズと思ってくれればいい
TVカメラだと移動もできますし
拡大レンズもある
そのカメラに写るものだけが世界で
信用できるものだと人は思いこんでいる
色彩も音もついていて
しかも何度も繰り返しがききます
デジタルの時代になりましたから
肉眼なんて余計なもの
「肉眼なんて余計なもの」とは、もちろん田村流の逆説である。「カメラ」のレンズ、テレビカメラがとらえるものは「間接的」である。人間の目は、いまは、もうそういうものになってしまっている。
「何度でも繰り返しがききます」はたいへんな皮肉である。「目」は、人間の「視線」のありかたを知らず知らずに身につけている。人間がつみかさねてきた「視線」、形成してきた「視線」をそのままつかって世界を見つめる。「一点透視図」のような「視線」もあれば、「古今風の感性」というような「ことばの視線」もある。それは蓄積され、数値化され、デジタル化していると言えるかもしれない。田村が書いているように。
それは、「殺人」が「肉眼」だとすれば、「ホロコースト」を「目」と呼ぶようなものかもしれない。
「目」と「肉眼」の違いを、田村は次のようにも書いている。
人間の悲惨という輝しき存在も、どこを探したっていない、赤ん坊が
母胎からポトリと落ちて消耗するだけ
「目」は何も生まない。ただ「消耗する」。すでに形成された「視点」で世界を見つめるとき、世界はただ「消耗」される。
「肉眼」は、そういう「消耗」そのものを破壊し、「視線」のとらえる世界を破壊し、ことばにならないものを、「未分化」のものに、直接触れる。そして、そういう「直接性」は、まだ人間に共有されていないがゆえに難解でもある。
「人間の悲惨という輝しき存在」ということばが象徴的である。ふつうの、つまり「目」の「視線」から見れば、「悲惨」が「輝しい」というのは奇妙である。ほんらい結びついてはならないことばである。だから、そのままでは「難解」である。「難解」のなかには、すでに形成された「視線」ではとらえられない(理解できない)、まったく新しいものがあるのだ。「目」を叩き壊し、そういう新しいものを「直接」放り出すのが詩なのである。
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