「花びらは死んだ様な空気の中を、まつ直に間断なく、落ちてゐた。
樹蔭の地面は薄桃色にべつとりと染まつてゐた。あれは散るのぢやない、
何んといふ注意力と努力、
驚くべき美術、危険な誘惑だ」(小林秀雄)
「あれは散るのぢやない、」と「何んといふ注意力と努力、」の間には、ほんとうは「散らしてゐるのだ、一とひら一とひら散らすのに、屹度順序も速度も決めてゐるに違ひない、」という1行がある。
(私は、「田村隆一全詩集」は思潮社版2000年08月26日発行をテキストに使用している。1087ページが該当個所。「小林秀雄全集」は新潮社版昭和53年06月25日発行をつかっている。)
なぜだろう。なぜ、省略したのだろう。
引用のあと、田村は書いている。
肉眼を形成するために
人はこの世に生れ
この世によって育てられる せっかく
肉眼が誕生したというのに
「危険な誘惑」しか見られないのは
すごいパラドックスだ。
田村は「散らしてゐるのだ」に「肉眼」を感じたはずである。そして、その「肉眼」が、そのあと「危険な誘惑」を見てしまったことに対して「パラドックス」と言っている。「散らしてゐる」から「危険な誘惑」までの「間」について、感じるところがあったはずなのである。それなのに、そこを省略している。
なぜなのだろう。
また、田村が引用していることばは、小林の文章を読むかぎりは、小林が考えたことであって、口には出してはいない。けれど、中也は、小林の様子をみて何かを感じ「もういいよ、帰ろうよ」と言ったのだ。
そのとき、中也が見たものは何なのだろうか。
そして、それを田村は、どう考えていたのか。
視力があっても「危険な誘惑」を感受できない「うつろな眼」は
世界中に充満していて
猫の眼のほうが
肉眼とでも云いたくなる
(略)
老樹が倒れたそのあとに
若木がすっきり立っていて
花びらは音もなく散っていたが
「散らす」までにはもっと時間がかかるだろう
それまでに
ぼくの肉眼が生れるかどうか いまさら
眼科へ行ってもはじまるまい
「散る」ではなく「散らす」を見るのが「肉眼」。しかし、そのとき「もういいよ、帰ろうよ」と言った中也は? 中也は「肉眼」をもたなかったのか。それとも、「散らす」のあと、「危険な誘惑」までことばを動かしてしまう小林に対して、それは「肉眼」ではないと感じていたのか。
ことばは、ことば自体の力で運動してしまう。「危険な誘惑」は「散らす」ということばが呼び込んでしまった「錯覚」かもしれない。--そういう批判を、田村は、ほんとうは書きたかったのかもしれない。
「爪」という短い作品。
どうして
爪ばかりのびるのか 爪を
切るばかりが人生か
死者になった直後にも爪だけはのびるそうだ
爪がのびなくなったら
「脳死判定」よりも正確ではないか
愚者はあえて名医に意見具申する
わが爪よ
今日も切らなくちゃ
「危険な誘惑」は「爪」のようなものである。それは「死者」のあと(「肉体」でなくなってしまったもの)、なぜかのびてきてしまうものである。
「肉眼」がものを見ることと、概念が自律して運動してしまうことは、どこかで決定的に違う。そのことを田村は書きたいのだと思う。「肉眼」が「散らす」を見たのに、そのあと概念はかってに「危険な誘惑」まで暴走してしまう。その結果、「肉眼」で見たものは、どこかへ忘れ去られてしまう。
田村は、あえて、その「忘れ去られた1行」を復権させるために、あえて省略したのかもしれない。書かないことによって、読者に対して、何か変だと感じさせたかったのかもしれない。小林秀雄のことばを読み直すように、そして中也とのやりとりを読み直すように提言しているのかもしれない。
「肉眼」がとらえる具体的な「もの」「ものの動き」と「概念」との境目--それを直感的にみてしまい、「概念」には行かない、というのが詩の理想かもしれない。
田村が書きたいのは、そういうものかもしれない。
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