そして、この「肉体」の再生成に「時」(時間)が深くかかわってくるのも、これまで見てきた通りである。
たとえば「眼」。
ぼくはシカゴ美術館のたった一枚のゴッホの部屋で三〇分釘づけになった
ぼくの眼が肉眼に造形されて行く過程が
ぼくの眼がぼくの眼に告知してくれる「時」の力
その力で
眼は肉眼になるのだ さ
その眼で
自分の顔から人の顔 二枚舌 三枚舌の色別をしてみようではないか
ゴッホに出会う。ゴッホという絶対的「他人」がかかえこんでいる「時間」。その「時間」に触れることで、田村のなかの、既成の「時間」が破壊されていく。そして、見えなかったものが見えはじめる。それを田村は「眼が肉眼に造成されて行く」と書いている。そして、それには「時」を造成することと同じである。「時間」をつくることと同じである。
「時間」は自然に過ぎ去っていくものではない。「時間」はやはり「肉眼」と同じように造成するもの、つくりだして行くものなのだ。
「肉眼」で見るとは、新しく造成した「時間」で世界を見つめなおすことである。
その眼で
自分の顔から人の顔 二枚舌 三枚舌の色別をしてみようではないか
とは、新しい「時間」で自分を、そして「人」をみつめてみようという呼びかけである。そこに「舌」が出てくるのは、「肉眼」「時間」が見るべきものには「ことば」も含まれていることを意味するだろう。「もの」だけではなく、「ことば」を「肉眼」で見る。どんなうふうに見えるか。「ことば」を「肉・時間」(と仮に書いて置こう)で見る。どんなふうに見えるか。
この「肉・時間」を田村は、別のことばで書き換えている。(「肉・時間」と呼んだのは私だから、田村が「書き換えている」という表現はおかしいが……。)
視力はいらない
ゆっくりと鈍行列車からおりればいい
自画像が美術学校の卒業制作だが
その制作が完成するのには五〇年はかかるだろう
その時こそ「心眼」が誕生するのさ
「肉・時間」でみたものは、「心眼」で見たものに一致する。「二枚舌」「三枚舌」に隠されているものを見抜く力「心眼」--それは「肉眼」とともにある「時間」の視力が見抜くものと一致するのだ。
「鼻」というタイトルでくくられた作品の中に、「ぼくの聖灰水曜日」という作品がある。バンパイアと聖少女の「性的な旅」に触れた詩である。
殺戮 悪徳 罪 暴力 不死 闇の力を賛美しつづけ
滅びのない絶望 愛と栄光の抹殺をたからかに歌いながら
この華麗な陰画の世界の環は
永遠にむかってダイナミックに完結して行く
「永遠」にむかって完結する
この逆説は
ぼくにとっては美しすぎる だが
この不可能な完結によってサンフランシスコの冬の一夜から
ぼくは一挙に解放される
「肉・時間」「心眼」は、あらゆる「時間」を「永遠にむかって完結する」形で描き出す。完結しないから永遠なのに、「肉・時間」「心眼」のなかでは、一瞬だが、完結する。その逆説。
--逆説は、田村にとっては「矛盾」と同じものだ。
逆説のなかで、「正説」が破壊される。叩き壊される。否定される。そして、その破壊の運動のなかで、生成がはじまる。それは破壊という方向と重なる生成である。
私は何度か、破壊の果てに、そこから新しく生成がはじまると書いたが、それは正確ではない。破壊の方向、解体の方向へ生成するのだ。運動のベクトルそのものが生成なのだ。何かが誕生するのではなく、運動が誕生であり、生成なのだ。
田村のことばの延長線から、何か「もの」(概念)が新しく誕生するのではなく、何も誕生しない。ただ、破壊があるだけ、破壊の運動があるだけ--ということが誕生であり、生成なのだ。そこあるのはエネルギーだけなのである。
何の「枠」ももたないエネルギーそのもの。それが「解放」のすべてである。
「時の娘」には、このことが次の4行で書かれている。
真理は「時」の娘 なぜ
息子を産んでくれないのか
「時」という母胎は息子を拒む 男の子だったら
反真理にむかって疾走するにきまっているからさ
「反真理」。ことは「逆説」と同じこと。その「疾走」のなかげこそ、すべては「解放」される。田村がことばでつかみ取ろうとしているのは、その「解放」、その「自由」である。
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