『田村隆一全詩集』を読む(76) | 詩はどこにあるか

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 『狐の手袋』(1995年)には、田村が過去に書いたことばがいくつか出てくる。(これまでの詩集にも、同じことばが何度も登場する。)田村は何度も同じことを考える。それは、それだけその考えが田村にとって重要ということなのだと思う。
 私も田村にならって、同じことを何度も書こう。
 田村は「肉体」を、ふつうに分類されている機能にふりわけない。目なら見る、耳なら聞くという具合に分類しない。違う機能、感覚と結びつける。
 「手」の「月光」という小タイトルのついた作品。

詩人の手の指には耳がついていなければならない

 これは、手の指(ふつうは触覚を担うだろうか)と耳の融合である。

泉や微風を感受する耳 たぶん
小指についているはずだ

 この1字あきと「たぶん」は、田村が「手の指には耳がついていなければならない」と書いた時、まだ、指が5本ずつ、計10本あるということを意識していなかったことを意味すると思う。「手の指には耳がついていなければならない」と書いて、それから考えはじめている。つまり、ことばを動かしはじめている。
 「泉や微風を感受する耳」と書いて、そのあと、その感覚にふさわしい「指」を探している。答えがみつかるまでの「間」が1字あきであり、「たぶん」なのだ。それも「たぶん」は行のいちばん下にきている。「たぶん……はずだ」という文の構造が改行によって解体されている。「間」がそこに割って入って、きちんとした構造を破壊している。破壊された構造のなかに「小指」が割り込んだのである。
 こういうことばの動きを読むのが私は好きだ。自然に動くのではなく、無理やり動かす。無理やり動かすのだけれど、その無理やりの中には、おのずと田村自身の「自然」がはいってくる。つまり「無意識」が。「未分化」の意識が。

詩人の手の指には耳がついていなければならない
泉や微風を感受する耳 たぶん
小指についているはずだ
野の花 若木 老樹 シダ類の囁きや悲鳴をききとるのは
薬指(くすりゆび)の耳
中指は人間の暗部を探知する耳
親指の耳は丸く厚くなければならない
この指は知的判断をつかさどるからさ
人差し指は言葉という動く標的を狙うために
雑音に形態をあたえるための耳 さて
中指だが
その先端についている耳に
飛ぶ言葉
苦い言葉
軽い言葉
太陽を背にして垂直に襲いかかってくる
言葉をとらえられるか

 「小指」「薬指」は聞きとる対象が先に示され、そのあと「指」が特定されている。しかし、中指からあとは、指が先に掲示され、その聞きとる対象が特定される。この変化は、田村の意識が加速したことを意味するだろう。何を書くか決まっていなかったが、書きはじめたらことばが加速して、動きはじめたのだ。
 加速することばには、たぶん、ある特徴がある。ことばは加速すると、具体的ではなくなる。抽象的になる。「泉・微風」「野の花」「シダ類」という自然の具体物が、「囁き」「悲鳴」という「音」にかわり、「人間の暗部」というような抽象へ一気に飛躍する。その後、「知的判断」「言葉」が登場する。「指の耳」は具体物ではなく、抽象的なものを聞く「耳」なのである。
 このとき明らかになることは、人間の「肉耳」(ここでは「肉指」というべきなのか)は、具体物だけを見たり聞いたり触ったりするのではない。それはいったん「肉体」そのものになってしまえば、その「肉体」は「具体物」のなかに存在する「肉・物」というべき何かに触れる。そして、それは「具体」のなかにある「抽象」である。
 「肉体」は「抽象」に触れる。そこにあるものではなく、そこにあるものが隠しているものに触れるのが「肉体」である、と定義しなおした方がいいかもしれない。

 そこにあるもの。それは何かを隠している。その隠しているものを見るために、ことばは、その、そこにあるものを解体しなければならない。破壊しなければならない。その解体、破壊には「肉眼」「肉耳」「肉舌」「肉指」などが必要である。
 たぶん「肉指」というような奇妙なことばでしか言い表すことのできないもの(田村は、「肉指」とは直接言っていないけれど……)を書いたために、ことばの加速度は一気に高まってしまったのだと思う。
 こういう加速は、しかし、詩にとってはいいことではない。特にに「肉体」のことばを目指す詩にとっては、これは不都合ことになると思う。抽象が具象を追い越していくと、「肉体」という感じがしなくなるからだ。
 たぶん、田村はそういうことに気がつき、方向転換する。
 3連目で「指」→「言葉」というベクトルの向きを逆にする。

言葉は見るものではない
指の耳で聞くものだ
その音を彫刻家のように造形手
削るものは削り たとえ少女が鉛の腕だけになったとしても
はじめて人は
言葉が読めるようになるのではないか

 目や耳、舌、足を失っても「腕(手、指)」があれば、ことばは読める。このときの「読める」は、そして「聞きとることができる」、「聞く」である。
 感覚が(聴覚や触覚が)融合するように、認識する力もまた融合する。「聞く」ことは「読む」こと、「読む」ことは「聞くこと」になる。
 そんな変化があるからこそ、そのつぎに李白の詩がとつぜん引用されたりする。
 指は「耳」となって自然の音を聞く。その後、耳となって「言葉」を聞く。そして、その耳は、「言葉」を聞くのではなく、読むようになる。読むとは、つまり、声に出して「話す」ということでもある。そして、話すは「放す」でもある。
 指は何かをつかむときにつかう。その指が「耳」からはじまる変化の果てに、何かを「放す」。つかむとは放すためにする行為なのか。つかむから放すへと、その行為が逆転したとき(矛盾したものになったとき)、その矛盾という運動のなかに、詩があらわれる。
 指の、つかむという働きは、

酩酊した盛唐の詩人が湖上に写る月を抱かんとして
溺死したという歓喜の伝説

 という2行に象徴的に書かれている。そして、この2行は、次のように展開していく。

湖上に写る月を抱かんとする手が欲しい
汚れきった手だとしても

純白の手はいらない
それは人間の手ではない その手についている
耳は空耳ばかり

 「肉体」の反対のことばは「空」である。「肉耳」が聞きとるものは、何かが隠しているものであるのに対して、「空耳」が聞くのはそこには存在しないものである。




ぼくの中の都市 (1980年)
田村 隆一
出帆新社

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