渡邉浩史「路上」 | 詩はどこにあるか

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渡邉浩史「路上」(「イリプスⅡnd」3、2009年04月20日発行)

 渡邉浩史「路上」にとまどってしまった。書き出しの2行。

都会の路上には 狂死した人々の「憧憬」と「悲哀」とが混在する。
だから 街は常に「不安」であるし 少年の心もそれを直感し「不安」になる。

 おびただしいカギ括弧は何なのだろうか。なぜカギ括弧つきで「憧憬」「悲哀」「不安」と書かなければいけないのか。カギ括弧にくくることで何をあらわしたいのか、私にはわからない。
 街の不安を直感し、少年が不安になる。少年の「心」が直感すると、わざわざ「心」と書くことで、少年を「心」の世界に限定しておいて、それでもなおかつ「憧憬」「悲哀」「不安」とカギ括弧でくるる理由がわからないのである。
 この書き方は、詩のクライマックスにもあらわれる。

--突然 少年の瞳の奥を 轢死した少女が駆け抜けていった。
少年は瞳に涙をためながら 少女の「嘆き」を全身で受け止めた。
それは 少年が「生」の内側に感じる「死」と対峙した瞬間であった。
少女の「死」は 少年の裏側で解体され そして新しい「生」になって復元される。
降り注ぐ穢れなき雨のカタルシスによって……。

 どんな文体をくぐりぬけてきたのかわからないが、渡邉の文体はゆるぎがない。そのゆるぎのない文体で追いかけたい何かがあるのは感じられる。けれど、そのとのの肝心のことばがカギ括弧に入っているのでは、読んでいる方としては困ってしまう。
 それとも、この困惑は私だけ?
 他の人の書く「憧憬」「悲哀」「不安」「嘆き」「生」「死」と渡邉のそれは、どこがどう違う?
 もし、その違いを書きたいのなら、単にカギ括弧でくくるのではなく、違いがどこにあるかをていねいに書いてもらいたい。
 あるいは、カギ括弧が強調の意味合いしかもたないのだとしたら、その数が多すぎて、何を強調したいのか、わからない。

 カギ括弧をすべて消し去った方が、文体の繊細さが伝わるのではないかと思った。