『田村隆一全詩集』を読む(72) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 「ある」と「なる」。「ハミングバード」には「ある」も「なる」もつかわれていないが、この詩でも「ある」「なる」ということと存在の関係が書かれている。

小鳥の内部には 細長いクチバシの
小鳥が歌を歌っている

人間の内部には
人間がいない

 「内部」は「雪は汚れていた」の「彼女の中にある雪/ぼくの中にある雪」の「中にある」と同じである。小鳥の中には、細長いクチバシの小鳥がある(いる)。そしてその小鳥は歌を歌っている状態にある。小鳥の中にある(中にいる)小鳥が歌を歌うことで、外部もまた歌を歌う小鳥に「なる」のである。
 この「ある」と「なる」の関係は、田村にとっての、存在の理想形のようなものである。
 その小鳥と対比すると人間は奇妙である。「人間の内部には/人間がいない」。「人間」の内部には、人間のきまった形、「定型」というものがない。小鳥なら歌を歌うという定型があり、それが細長いクチバシという存在を通ることで「定型」になる。人間は、何に「なる」か、決まっていない。「動詞」が決まっていない。
 これは、逆に見れば、動詞の決め方次第で何にでも「なる」ことができるということを意味する。だからこそ、田村は、存在のありようがきまっているように生きている読者に対して、その「定型」を破壊し、いのちそのものに還元し、そこからの生成を(再生を)うながすように、ことばを書きつづける。

小鳥の内部には 細長いクチバシの
小鳥が歌を歌っている

人間の内部には
人間がいない

靱帯解剖図のように
赤と緑の細い川が流れ

欲望と恐怖が駈けめぐり
白昼の影だけが人間の形をしていて

花がひらく 空中に停止したまま
小鳥からぬけだしたハミングバードが

花の密をめがけて急降下
世界一ちいさな声 ちいさな羽根を

ふるわせて
人間の皮膚をかぶった人間はただ眺めているだけ

 最後の2行は、奇妙に歪んでいる。そして、その歪みの中に、田村の、夢、願いのようなものがある。
 「歪んでいる」と書いたのは、「ふるわせて」の主語は「ハミングバード」であることを指す。ほんらい、その直前の連にあってしかるべきものである。
 この詩は2行ずつ7連の構成になっていて、それは、小鳥、人間、人間、人間、ハミングバード、ハミングバードと描写してきている。最後だけ、ハミングバードと人間の両方が同居している。その同居は、しかも、ごく簡単に解消できるものである。つまり、

花の密をめがけて急降下
世界一ちいさな声 ちいさな羽根をふるわせて

人間の皮膚をかぶった人間は
ただ眺めているだけ

 という形にすれば、それぞれの連がハミングバード、人間の描写として完結する。けれど、田村は、そうしていない。「ふるわせて」をわざわざ、1行あきをつくったうえで人間の描写に結びつけている。
 「ふるわせて」という動詞に、夢を託しているのだ。
 もし人間が、ハミングバードを見て、こころをふるわせるなら、「人間の皮膚をかぶって」ハミングバードを眺めているだけの存在は、何かに変わる(変身)できるはずなのである。人間のなかにいる「人間」が何かに「なる」はずなのである。
 人間の中にある(いる)人間が、ハミングバードを単に歌っている鳥とみているかぎりは何もおきない。ハミングバードが歌っているのは、実は、ハミングバートの中にいる小鳥が歌っているからだ--ということに気づけば、その事実に、こころをふるわせることができれば、そのとき人間は変わりうる。

 人間の目には、ハミングバードのなかにいるハミングバートは見えない。けれど、「肉眼」では、どうだろうか。「肉眼」なら見える。
 何が人間の「肉眼」をじゃましているのか。人間の「肉眼」が「肉眼」であることをじゃましているのか。そのじゃまを、どうやったら取り除けるのか。その障害を、どうやったら破壊できるのか。
 田村のことばは、常に、そういうものを探している。


詩と批評D (1973年)
田村 隆一
思潮社

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