『田村隆一全詩集』を読む(70) | 詩はどこにあるか

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 「必需品」という作品がある。「屋根 壁 窓 ベッド/パン 水 トイレット」ではじまる。生きていくのに必要なものをリストアップしている。「裸体の若い女性には興味があるが/裸体の思想はワイセツだ」というおもしろい2行があるが、その2行につづく部分も興味深い。

人が通りすぎる
人が街角で消える

そんな瞬間 ぼくは死んだ人間に出会う
ぼくは不定型の人間になる

 視界から人影が消えた瞬間、死んだ人を思い出す。そのあと。「ぼくは不定形の人間になる」。この「不定型」ということば。これは「不定・型」ではなく、「不・定型」だろう。定まらない型(形)ではなく、「定型」になっていない型(形)。
 ふいに、英語を思い出すのである。私は。不定型を「定型動詞」を思い浮かべるのである。英語の動詞は、主語、時制によってはじめて「型」が定まる。主語、時制に関係していない(?)状態、原型(形)に対して、「定型」がある。ここで田村が「不定型」といっているのは、原形のことである。動詞の原形。
 田村は人間を動詞としてとらえている。
 動詞の原形である、田村は、動詞となって、ある特別な主語に従い、そしてそのときの時制をしたがい、形を変える。変形する。
 「変身」についてすでに書いてきたが、この「変身」とは、実は「動詞」のありようなのである。「動詞」は主語、時制によって形を変えてもなにも不思議はない。当然のことである。「変身」は、田村にとっては、特別なことではなく、ごくふつうのことなのである。

 「必需品」にからめて。
 詩人にとって何が「必需品」であるか。外国語である。日本語と外国語では、ことばの動きが違う。違う動きをしながら、それでも「人間」を描写する。同じ人間を描く。そのことばの運動に触れることで、無意識に動かしている「日本語」の動きに敏感になる。「日本語」の動きを鍛える。
 そして、「日本語」を「外国語」としてつかうとき、そこに詩が姿をあらわす。

 「外国語」というのは「他国語」でもある。「外」は「他」、「他人」の「他」。
 「他人」と出会って、ことばが動きはじめる。いままでのことばを捨てて、「他人」と向き合うために、ことばを変形させる。そのとき、ことばは変形させられるのではなく、「変身」するのだ。





新選田村隆一詩集 (1977年) (新選現代詩文庫)
田村 隆一
思潮社

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