「写真機の雲」という作品がある。そのなかほど、
Sはあるとき
Sよりも年上の男を
「先輩! 先輩!」
とうれしそうに呼んでいた
その先輩、先輩と呼ばれた人は
酒の入ったコップをもちながら にっこりとわらい
「きみは、ユーモアものでもかいてみたら。あいうえお」
と石川にいった
先輩はこれで二人になった
同じことをいう これが感じとれる社会だ
最後の「同じこと」というのは、詩の冒頭の部分を受けている。
二年先輩のSは 石川が学生のころ
「おまえには 才能はない
趣味で ユーモア小説でもかいてみろや」
と言った
このSのひとことかが
石川の雲を先導した
「ユーモア小説(もの)でもかいてみろ」と石川は2回言われた。そこに「社会」がある。「社会」とは「同じこと」を言ってくれるひとたちとの関係のことである。
荒川が詩をとおして書きつづけているのは、この「同じことをいう」という暮らしの(生き方の)大切さである。「同じことをいう」という習慣が消えつつある。それは「同じこと」が消えるということでもある。荒川は、その消えつつある「同じこと」を詩の形にして守りつづけている。守りつづけていると書くと保守的な感じがするかもしれないが、誰もが「同じことだからいわない」という風潮を生きている時と、この「同じことをいう」という生き方は非常に革新的である。革新的でありすぎて、その革新性が見えにくい。つまり、どんなふうに革新的であるかを説明しようとすると、非常にめんどうくさい。
「社会」「同じことをいう」。それに関することばはつづく。
同じことをいう これが感じとれる社会だ
でも体制の転覆はないぜ と
Sのたよりは かなしいことにふれた
長文でもないので そこに社会があった 恐怖があった
「同じこと」は「長文」ではない。とても短い。短いけれど、それをささえている「感じ」はとても長い。短い「同じこと」を聞かされながら、どれだけ長い(長文の)「感じ」を感じ取れるか--それが大切なのである。
短い「同じこと」を繰り返し言いつづけ、それが感じ取れるまでそのひとを待ってくれるのが「社会」というものである。そういう「社会」はしだいに消えつつある。たとえば「先輩」という「社会」も。その結果、「短いことば」の奥にある「長い感じ」がどんどん消されてしまって、「感じ」そのものが「日本語」から消えてしまっていく。
荒川が感じていることばへの思いは、そういうことだろうと思う。
「日本語」から「感じ」を消したくない。「日本語」に「感じ」を復活させたい。--荒川がやっていることは、それにつきると思う。『水駅』のころから、それは一貫していると思う。『水駅』のころは、それが「抒情」という形に見えたので理解しやすかったが、いま書いている作品には「抒情」のような簡単な(便利な)キーワードがない。そのために、とても説明しにくい。
「同じこと」をいう社会。それを言ってくれるひととの関係。そのなかでつくられ、そだてられていく感じ、そしてことばのつかいかたの作法。それは、ことばをどう感じ取るかという感じ方の「教育」でもある。
うまくいえない。
たとえば、次の連の次の部分。
「おれの着物はおまえの反物」
そんなことも
Sはいったように思うが
この いまの思いがうれしくて
少しもそれを真剣にきいていない
「あとから誰かがきくだろう」
石川はそう思い
勇気のある行動に出ようとした
ひとが何かいう。いってくれる。それを「真剣」にはきかない。「あとから誰かがきくだろう」。そんなふうに聞き逃す。そうやってやりすごしたことばを、もう一度誰かがいってくれる時(それに気づいた時)、そこから「社会」がうまれる。つまり、離れているふたり(同じことをいってくれたふたり)が、石川というひとりを中心につながる。そして、そこに「感じ」が流れはじめる。「感じ」が存在するだけではなく、動きはじめる。
荒川は、ことばを、1対1の関係の中で動かそうとはしていない。1対1の関係のなかにとじこめようとはしていない。1対1から解放しようとしている。そう説明すれば、いくらか荒川の革新性に近づくことになるだろうか。
ことばは、たとえば恋人に愛を告白することばは、基本的に1対1の関係にある。ほかのひとが納得しなくても相手さえ納得すれば、それはことばとして有効である。そういうことを狙ったことばは、たくさんある。1対1の関係の中で有効なことばが流通し、反乱しているとさえいえる。
荒川は、そういうことばに対して、1対1をさえている、もっとゆるやかな、感じ方そのものを育てることばを復活させようとしている。
「あとから誰かがきくだろう」は、この連の部分では、石川自身の思いとなっているけれど、それはほんとうはSの思いでもある。「あとから石川はまた誰かから聞かされるだろう」。いま、いっていることがわからなくてもいい。いつか、また誰かに出会い、「おなじこと」を聞く。そのとき、「感じ」がわかる。「感じ」を思い出す。そんな具合にして、深いところでつながっていく「社会」というものがある。
「先輩」とは、たぶん「おなじこと」をいってくれる人のことである。
昔は、こういう「先輩」の集団を「壇」と呼んでいた、と思う。荒川は、いまはなくなった「壇」を復活させようとしている。「壇」によって、ことばの「感じ」をささえ、ことばの動き方を鍛練しようとしている。
でも、これは、現代のように、「オンリーワン」至上主義の時代には、なかなか通じないだろうと思う。人間は「ナンバーワン」でなくていいのはもちろんだけれど、「オンリーワン」でなくてもいいのである。「オンリーワン」などといわなくても人はひとりにきまっている。「オンリーワン」でなくてもひとりであり、同時に、そのひとりは「感じ」をそれぞれに持っている、「感じ方」を共有しているということが重要なのである。「感じ」というより「感じ方」の共有。その「共有」の「場」が「壇」だろうと思う。「感じ方」の共有がなくなったとき、「感じ」そのものがなくなっていく、と荒川は感じているのだと思う。
これは、しかし、通じないかもしれないなあ、と思う。さびしいけれど(荒川には申し訳ない気持ちにもなるけれど)、荒川のやっていることは、あまりにも高級すぎる。時代を先取りしすぎている。
*
「同じこと」。これは、ことばがそのままなら「同じこと」になるわけではない。そのことを厳しく書いている詩がある。「酒」の3連目。全体が2字下げになっている。注釈の形で挿入された行である。
〔この詩を見るため、捨てるための手引き〕
最初の一節のなかほどにある「強い母」は、
正しくは「強い母」。最終節のこれもなかほどの
「たぐいまれな薬草」は「たぐいまれな薬草」が
正しい。全体にみえる「酒」も、正しくは「酒」。
いまはこんなことをしている。
「この詩」とあるが、この作品の最初の一節にも、最後の節にも、「強い母」もそれ以下のことばも出てこない。そして、間違っている(?)と指摘されていることばと「強い母」「たぐいまれな薬草」「酒」と、正しくは云々といわれたことばは、まったく同じである。外見上は同じことばを一方を間違っていると書き、ただしくは云々と書き直している。
これは、どういうことだろう。「強い母」は正しくは「弱い母」、「たぐいまれな薬草」は正しくは「ありふれた薬草」なら違いはわかるが、同じことばで反復されたのでは、訳が分からなくなる。
たぶん、荒川は、「この詩」に書かれている「強い母」以下のことばは「壇」を共有していない、というのである。「感じ方」が共有されたものではない、というのである。外見は「同じ」であっても「感じ方」が「共有」されていなければ、そのことばは「正しくはない」。
「写真機の雲」に戻る。先輩Sは「趣味で ユーモア小説でもかいてみろや」と石川にいった。Sよりも年上の男(Sの先輩)は「きみは、ユーモアのもでもかいてみたら」と石川にいった。それは正確には「同じ」ではない。けれど「同じこと」である。
「酒」にもどる。荒川が書いている「強い母」「たぐいまれな薬草」「酒」はまったく同じことばではある。けれど、それは「同じこと」ではない。「こと」が大切なのだ。「同じ」をささえている「こと」が。「こと」がそこに存在するかどうかがとても大切なのだ。
荒川は、ここでは、荒川自身の詩の読み方、あるいは本の読み方を、しずかに語っているだ。「いまはこんなことをしている」と。
言い直そう。
荒川は「こと」を書いている。「こと」というのは、ことばのなかに隠れているものである。「こと・ば」。「こと」の「葉っぱ」(端切れ?)が「ことば」であり、そこに「こと」がなければ、ただの葉っぱである。
さらに言い直せば、荒川は、彼の作品では「感じ方」が「共有」されていたことばを選りすぐって詩を書いている。そうすることで「こと」をしっかりみえるものにしようとしている。
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