『田村隆一全詩集』を読む(61) | 詩はどこにあるか

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 「間」をとは何か。「光りと痛み」のなかでも、田村のことばは「間」を追いかけている。「時間」を「時・間」ととらえて、「間」を見つめている。

月の光りだと
地球にとどくまで一・三秒しかかかならない
すると月光によって
詩に駆りたてられる人間は一・三秒の誤差があるわけだ
太陽の光りは八分十六秒六もかかる
詩人よりも農夫のほうが光りの誤差に耐えなければならないな
誤差の力学から考えると 詩よりも草木のほうが詩的だということになる

 「誤差」とは「間」の大きさのことでもある。そして、田村は、この「間」が大きい方が「詩的」だという。「誤差」こそが「詩的」だということになる。
 「誤差」「間」を求める。そこに田村の思想がある。
 何度か弁証法について書いた。矛盾→止揚→発展。この運動にあっては「誤差」は許されない。別なことばで言うと、この運動にあっては「間」、あるいは「飛躍」というものはあってはならない。それは「連続」したつながりでなければならない。しっかりしたつながりで、発展という方向へ運動を組織していくのが弁証法の哲学である。「矛盾」というものには必ず「間」がある。対立するものの間には、互いを拒絶する何かがあって、それが「間」をつくりだす。その「間」を少しずつ取り除き、ぴったり重ね合わせてしまうことが止揚であり、その止揚の結果、「間」を、つまり矛盾をつくりだしていたものは、発展的に別の存在になる。別の存在ではあるけれど、そこには緊密な運動が確立されている。矛盾→止揚→発展という運動の「確立」が弁証法である。
 田村の運動はまったく逆である。矛盾が矛盾として認識されるのは、それが対立するだけではなく、なんらかのつながりを要求するから矛盾になるのである。つながりを(連続を)もとめないかぎり、それは別個に存在するだけで矛盾にはならない。水と火は、離れて存在するかぎり、互いを否定はしない。矛盾した存在ではない。
 世界というのは、ある意味では、離れているものが連続する形にととえようとする運動でもある。人間は、あらゆるものをひとつの連続体系のなかに組織的にとらえようとする。どんな連続形式として世界を描写できるか--を科学は求めている。それを追究するのが「発展」でもある。
 田村のことばは逆である。連続を求めるものを叩ききることにある。水と火は矛盾した存在である。それはそのままの形で結びつけようとするから矛盾なのである。結びつける運動を解体してしまえば矛盾しなくなる。水と火を遠く隔てて結びつかないものにまで解体してしまう。水を、たとえばH2Oにしてしまう。さらには、HとO、水素と酸素にしてしまう。それは、火を消しはしない。逆に燃えあがらせる。あらゆる存在は、解体しつづければ、どこかで矛盾しなくなる。
 それは、どの段階まで?
 原子? 分子? 陽子? 中性子? 素粒子?
 それは、もしかすると、矛盾を消す解体であるだけではなく、副作用として原子爆弾のような破壊、あるいはブラックホール、ビッグバンという制御できない運動を引き起こすかもしれない。
 それがどういうものであれ、田村が求めているのは、そういうものである。
 素粒子ついでにいえば(?)、素粒子は見えない。それを見るためには、論理によって、原子の、あるいは分子の構造に「間」を導入しなければならない。分子の世界を宇宙的規模に拡大しないと、つまり巨大な「間」を導入しないと、それは見えて来ない。
 田村が詩でやろうとしていることは、大げさに言えば、そういうことである。
 世界の結びつきを解体する。存在そのものを解体する。存在をエネルギーの基本的な形にまで解体し、それが自由に動き回れるようにする。それが、詩だ。詩のことばの夢だ。「間」を、巨大な「間」をつくりだすことが、世界を自由にうごかす出発点なのである。
 「間」のなかで見えるもの--それは、現実そのものとは違って見える。素粒子の運動は、たとえば私たちの現実とは重ならない。その重なりを目で、耳で、手でつかみ取ることはできない。つまり現実と素粒子の運動の間には、巨大な「誤差」がある。そして、「誤差」が大きいほど、それは「真実」というか「真理」というか、存在の「自由」に触れているのである。

 そういうものを、どうやってことばは見えるようにすることができるか。「肉眼」で見えるようにできるか。
 その答えは、わからない。
 わかるのは、何がそういうものを妨害しているか、ということである。
 田村は「魂」をやり玉に挙げている。

それにしても ゴッホは耳を切るべきではなかった えぐるなら両の眼だ
じゃ詩人は?
魂という腐敗性物質さ
 不定形のくせに形式があり
 光りよりも
 もっと遅れてきては
 痛みをかきたてるからね

 「魂」。「形式」をもった腐敗した存在。「形式」というのは、連続性のなかにある。田村は、連続するもの、連続して形を描き出そうとするものを「腐敗している」と考える。腐敗していないもの、健康なものは、連続を解体し、自由に動くものだけである。常に、連続するものを解体しつづける力だけが「自由」の名に値するのだろう。
 解体する。関係を解体する。「間」をつくりだす。ことばすら解体し、ことばとことばの「間」を拡大する。「意味」を拒絶する。「意味」を破壊し、否定する。

 「現代詩」は難解だという。あたりまえである。現代詩は「発展」をめざしていない。ことばの「解体」を通して、別なことばで言えば、ことばを批評することで、ことばに自由を持ち込もうとしているからである。それは「日常」の連続性ではとらえることができない。逆に言えば、難解でなければ詩ではない、ということになる。


腐敗性物質 (講談社文芸文庫)
田村 隆一
講談社

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