『生きる歓び』(1988年)に「between 」という詩がある。そこでは「時間」と「間」に関することばが出てくる。
時の歩みは人間の足にくらべたら
気が遠くなるくらいのろいということも分ってきた
十万年前か百万年前に(わたしにとっては紙一重だ)
はじめて直立した人間の
脳髄の衝撃を追体験しようとすると
一瞬 わたしは目まいに襲われる
「十万年前」と「百万年前」との「間」には「九十万年」の広がりがある。しかし、それは田村にとっては「紙一重」である。つまり「間」が存在しないに等しい。なぜか。「九十万年」という「時」の「間」は「頭」では理解できるが、「肉体」では理解できないからだ。そして「頭」の理解というのは錯覚でもある。「頭」は「数字」の違いによって、見えないものを見えるようにさせているだけであって、だれも(どんな人間も)、「九十万年」がどれだけの長さ、広がりなのか「体験」したことはない。
「体験したことがない」ことを人間は理解できる。あるいは「体験していない」からこそ、間違えずに理解できる--ということかもしれない。たとえば「九十万年」という時間の広がりをだれも体験していない。だからこそ、私たちは「 100万年-10万年=90万年」と「正確」にその「間」を表現することも、把握することもできる。実際に、たとえば91万年生きたとしたら、その長さを、たとえば「91万年」と「90万9999年」の違いを私たちの「肉体」は具体的に語ることができるだろうか。きっと、できない。体験していないからこそ、私たちは正確に表現できる、理解できるということもあるのだ。
これは、逆のこともいえる。逆のことを考えると、おもしろいことが起きる。私たちは1歳くらいのとき、はじめて「直立」して歩く。これは誰もが体験することである。その体験を正確に記憶している人間は、たぶん、いない。けれども、子供が立ち上がって歩く姿を見ると、その最初の「直立」を見ると、自分もそうしてきたことが「わかる」。「理解する」というより「わかる」。
その「わかる」ことをもとにして、「はじめて直立した人間」のことも、「わかる」。あるいは、わかったような気持ちになる。その瞬間、不思議なことが起きる。
「十万年前」「百万年前」の「差」が消えて、ただ「直立する」という肉体の行動だけと人間が結びつく。
目の前の子供が(赤ちゃんが)直立して歩く--その姿を見た瞬間、自分もそうであったと「わかる」ように、なにかが「わかる」。10万年、 100万年の「時」を超えて、なにかが「わかる」。他人の経験というものは、けっして「わからない」ものであるはずなのに、「わかる」。
別な例を挙げた方がいいかもしれない。たとえば、道端で腹を抱えてうずくまる人を見たとき、私たちは、その人が「腹が痛いのだ(あるいは体のどこかが痛いのだ)」ということが「わかる」。他人の「肉体」の痛みは自分の「肉体」の痛みではないのに、それが「わかる」。
「肉体」というのは「間」を消してしまうものなのだ。「間」を飛び越して、なにかを結びつけてしまうものなのだ。
そういうことを、田村は、道端の人間に対してではなく、あるいは赤ちゃんに対してではなく、「はじめて直立した人間」に感じる。「わかる」。なにかを共有する。そして、そのとき「肉体」を隔てているのは、「空間」としての「距離」だけではなく、そこに「時間」の「間」が入ってくる。
「肉体」は「時間」の「間」も、超越する。あるいは浸食する。超越と浸食は、たぶん、正反対のことなのだろうけれど、その正反対のもの、矛盾したものが、同じものになる--というのが田村のことば、思想の特徴である。
この、肉体と時間の「間」の関係について書いている詩が、病院を舞台にしているのは、すこし暗示的である。象徴的である。肉体の変化が、「時間」というものへと田村の視線をひっぱっていっているのかもしれない。
あたかも風のごとく―田村隆一対談集 (1976年) 田村 隆一 風濤社 このアイテムの詳細を見る |