『田村隆一全詩集』を読む(58) | 詩はどこにあるか

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 『毒杯』(1986年)の最後のページは「まだ目が見えるうちに」という作品である。その後半。

「時が過ぎるのではない
人が過ぎるのだ」

ぼくは書いたことがあったっけ
その過ぎて行く人を何人も見た
ぼくも
やがては過ぎて行くだろう

眼が見える
いったい
その眼は何を見た

「時」を見ただけだ

 この詩は二つの点でおもしろい。ひとつは

「時」を見ただけだ

 と直接、「時」に言及していることだ。「時」はもちろんふつうは目には見えない。どんな視力のいいひとでも「時」を見たひとはいないはずである。それは「物体」ではないからだ。では、何か。存在の「形式」である。ものが存在する時の、在り方である。それは、いわば「観念」に属する。
 しかし、それを田村は「見た」という。
 何で見るのか。「眼」。ただし「肉眼」である。「肉眼」とは「肉体」であるけれど、その「肉体」というのは、「存在の在り方」なのである。「存在の在り方」としての「眼」が、つまり、そこに「思想」がかかわっているとき、「眼」は「肉眼」になる。
 そして、ややこしいことだが、その「思想」というのは、たとえばマルクス哲学であるとか、フランス現代思想であるとか、いわば「借り物」のであってはいけない。そういうもの、「頭」で学んだものを、切り捨てたときに残るもの、自分の「いのち」にからみついた、まだことばにならないもののことである。ことばにならない何か--それをくぐり抜けたとき、そのことばは「肉体」になり、そのとき、その「肉体」は「思想」になり、その結果として「肉眼」が、いままでは見えなかったものを見るのだ。ことばの力によって、それを存在させるのだ。「見る」とは「見える」ではなく、「見える状態」にさせることである。ことばをつかって、ふつうは見えないものをみえる状態にする。それが「肉眼」で「見る」ということである。
 
 もうひとつの興味深い点。

「時が過ぎるのではない
人が過ぎるのだ」

ぼくは書いたことがあったっけ

 この「あったっけ」。それがおもしろい。
 「肉眼」で「見たもの」--それが「思想」である。それは確かにそうなのだが、ある種の特別な人間は「肉眼」が形成される前に、何かを見てしまう。啓示。インスピレーション。見てしまう、というより、見えてしまう。
 「時が過ぎるのではない/人が過ぎるのだ」が、それにあたる。
 「思想」になる前に、ことばが、特別な人間--詩人にやってくるのだ。
 詩人は、その「見えた」ものを、自分の力で見るために「肉眼」を鍛える。いま「見えたもの」がほんとうに存在するのか。それとも、錯覚なのか。それを見極めるために、詩人はことばを動かす。
 田村だけにかぎったことではない。多くの詩人は、あるいはことばに携わる多くのひとは、何度でも同じことを書く。同じことばを書く。それは、それがほんとうに自分の「肉眼」が見たものなのか、そうではなく錯覚なのか確かめると同時に、もう一度、「肉眼」を意識してもそれが「見える」かどうか確かめるためでもある。

 ことばを反復する--そのとき、ふたつのことばの間に「間(ま)」が生まれる。その「間」は「時間」につながる。
 そして、そのことばの反復というとき、詩人は、自分のことばだけを反復するのではない。
 田村は、これまで書いてきた詩のなかで、多くの人のことばを引用している。西脇順三郎のような有名な詩人のことばだけではなく、街で出会った(外国で出会った)市井のひとのことばも引用している。たとえばアメリカ大陸を横断する列車の車掌のことばを。
 ことばを反復するとき、そこに「間」が生まれる。その「間」は「いま」と「過去」、あるいは「田村」と「他人」の「差異」でもある。その「差異」のなかに「時間」にかかわることがひそんでいる。「思想」の違い--そして「思想」の共通性がひそんでいる。それを見る、それをことばとして存在させるのが「肉眼」である。

 「まだ眼が見えるうちに」というタイトルは、田村の、まだ「肉眼」がとらえたものを書きつづけるという「詩人宣言」なのである。



ぼくの人生案内
田村 隆一
小学館

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