「川」という作品には西脇順三郎のような、誰もが知っているひとは出てこない。そのかわりに複数の人が出てくる。
「コンピューター屋さん」「煙草屋のおばさん」「養老院裏の老絵描き」「マムシ沢の作曲家」「詩人」「大学教師」。田村と親しい読者なら、それぞれの人物は誰それのことである、とわかるかもしれない。私は、それが誰を指しているのかわからないので、そのことばのままに受け止めておく。
その複数の人間が登場する作品の 3連目。
どんな人の心の中にも川は流れている
その川上には
きっと養豚場があって
何匹かの豚が脱走するかもしれない
脱走に成功した豚もいるかもしれない
失敗して屠場送りになった美しい豚もいるかもしれない
人は
心の中を流れている川に
どんな名前をつけるのだろう
夜半に目ざめてその川音を耳にしたとき
さかさ川
極楽寺川
二階堂川
と
自分の耳にささやきかけるのか
この「川」が私には「時間」のように思える。ひとは、それぞれの「時間」を生きている。「心の中を流れる川」は、私には「時間」のように思える。
それは田村と出会って、それぞれに「川音」をたてる。つまり、田村と出会うことで、「いま」「ここ」ではない「源」(川上)で起きたことを「いま」「ここ」に呼び出し、田村に語る。語るのは、いつでも「過去」のことである。体験したこと、つまりそれぞれのひとの「肉体」(肉眼・肉耳)が体験したことである。エピソードということばが体験の代わりにつかわれているが、それはそれぞれの「肉体」が「肉声」で田村に語ってくれたことである。
このことばは、西脇の「カマキューラ」とは違うけれど、やはり独特の「音楽」である。つまり、それぞれの人間の「肉体」によって、変化したもの、その「肉体」が消化することによって、いくぶんか脚色されているかもしれない。
そういう乱れ(差異--と、いえば現代フランス思想的になるかも……)を、田村は「名前」と呼んでいる。
心の中を流れている川に
どんな名前をつけるのだろう
「鎌倉」ではなく「カマキューラ」と名付けたように(呼んだように--呼ぶことは、他人から見れば、それに対する新しい「名付け」でもある)、不思議な音そのものの変化ではないけれど、それはやはり「音楽」なのだ。
「名付け」を動かしているのは、一方に「意味」があるかもしれないが、もう一方には「音」そのものの美しさ、「音楽」がある。嫌いな音でひとはものに「名前」をつけたりはしいない。
「川」の流れに「音」がある、「音楽」があるように、「名付け」の「音」にも「音楽」がある。そしてそれは「川」の流れのように、やはり「時間」をもっている。
「自分の耳にささやきかける」という一行があるが、「音」は「肉耳」に働きかけるのである。「音」のなかで、ひとは、「いま」とは違う何かに触れる。そこにきっと「時間」がある。
私の書いていることは飛躍が多すぎるかもしれない。論理的ではないかもしれない。飛躍したついでに、もう一度、飛躍してみよう。論理を吹っ飛ばして、ただ感じていることを書いてみよう。
最終連。
ある大学教師がその最終講義でしずかに語ったそうだ
「私の夢は
煙草屋のおやじになって
ウツラウツラしていることだったのに
自動販売機ができてしまっては
もうどうしようもありません」
私には、ここにも「時間」が書かれているように感じる。店頭でたばこを直接手渡しで売るという時代から自動販売機で売るという「時代」の流れ。そういう「一般的な時間(?)」とは別の、もうひとつの「時間」の「夢」がここには描かれている。
ウツラウツラしていること
意識がぼんやりしている。ほとんど無意識。放心。そのとき「時間」は、何時何分という「時間」と消えてしまって、ただ「とき」そのものになっている。どこへでもつながる。どこへもつながらない。そういう宙ぶらりんの、ゆらぎ。
--たぶん、というのは、またまた、大きな論理の飛躍になってしまうのだが、その「無・時間」の大きなウツラウツラとしたゆらぎは、この詩に登場する無名のひとたちとの接触の瞬間に似ている。
「コンピューター屋さん」「煙草屋のおばさん」らとふれあう時、田村は、詩人や文化人と会う時の「時間」(文化的教養、その蓄積がつくりだす広がり)の構造、枠というものを、そのまま持ち込むことはできない。そういうものを捨て去って、無防備になって、彼らのことばを聞く。そして、そのことばの流れてきた「時間」を思いやる。彼らには、田村が触れ合っている文化人とは違う「時間」の流れがあって、その流れと田村は無防備で出会う。
そうすると、そこに「音楽」がはじまる。
「音」はそのとき「意味」にもなる。
ジャズのセッションを私は思い浮かべるのである。「コンピューター屋さん」「煙草屋のおばさん」らはひとりひとり違った楽器をもっている。それは「鎌倉」とピアノが音を出すとすれば、それぞれの楽器はたとえば「キャマクーラ」という音を出すのに似ている。同じ主題を語っても「音」そのものが違い、そこから「音」を重ね合わせる楽しみが広がり、自然な運動になる。主旋律が変奏され、変奏されることで、いままで気がつかなかった旋律の奥にあるものが突然輝きだし、疾走する。そういう疾走を「意味」と呼ぶなら、「音」は出会うことで「意味」へと燃焼し、消えていく
その運動の間、「時間」が、「無・時間」がそこに存在する。
「川」を読みながら私が考えたことは、そういうことである。
誤解―田村隆一詩集 (1978年) 田村 隆一 集英社 このアイテムの詳細を見る |