『田村隆一全詩集』を読む(51) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 『奴隷の歓び』(1984年)に「物」という作品がある。「奴隷」を「物」と定義している。「奴隷」とは何か。「物」とは何か。田村の「定義」は何を言おうとしているのか。

神は
奴隷を人の子として創造しなかったから
祝福も罪もあたえはしない
都市(ポリス)は
奴隷に市民権をあたえるなど夢にも考えつかないから
物量として扱う

 「祝福も罰もあたえはしない」。「祝福」「罪」と無関係なもの、断絶した存在が「奴隷」であり、「物」ということになる。
 この「祝福」と「罪」は別なことばでも書かれている。

紀元一世紀から奴隷社会の崩壊がはじまる
奴隷から濃度へ
物から人へ
物だけが所有していた純粋な歓びも涙も
政治的社会的存在の複合観念に変質する
物が歓びの声を出すのではない
観念が音を出し
水のようなものを目から流すのだ

 「祝福」「罪」と無関係なもの、「純粋な歓び」「涙」。この「純粋な」ということばは、それが「神」からあたえられたものより上位である、絶対的であるということをあらわす。その「純粋」な歓びと涙が「人」になったとたんに消えてしまう。
 「人」と「物」を区別するのは「観念」である。「物」は「観念」をもたないのに対し、「人」は「観念」をもつ。そして「観念」をもったときから「純粋」ではなくなる。「観念」が歓び、「観念」が涙を流す、つまり悲しむ。
 田村は、「観念」に汚染されない(?)状態を「理想」としている。
 「奴隷」「物」は、「観念」に汚染されていない純粋な何かの象徴である。「観念」に汚染されない状態とは「肉体」(肉眼)のことである。
 弁証法は矛盾→止揚→発展という運動の軌跡を描くが、田村は、矛盾→解体→未分化という運動を描こうとしている。未分化の状態に人間を立ち返らせるために、ことばを動かしている。未分化の状態のひとつが「肉眼」であった。
 「奴隷」「物」の礼賛は「肉体・肉眼」の礼賛と同じ意味になる。

 「物」であること、「肉眼」であることとは、どういうことか。それは、いったいどんな関係をつくりあげることができるというのか。田村は何を夢見ているか。

ヘレニズム時代のギリシャ奴隷のテラコッタ像の写真を見た
(略)
この立像の側面からは
<物>の両眼は見えないが
遠くを見つめている感じだけは分る
いったい何を見つめているのか
何が見えたのか
無名の<物><物>との交感は
可能なのか

 「交感」。しかも「物と物との交感」。
 田村は、観念によって人間と人間が、その間に何かを作り上げるということをめざしていない。「交感」すればいいのである。「交感」が夢なのである。「交感」こそが「祝福」と「罪」の入り交じったものなのだ。歓びの瞬間、歓びの時間なのだ。(ここから、セックスの意味も出てくるが、ここでは省略する。)
 現代人は観念によって「人」と「人」が交流するのに必要なものを生み出し、その新しい物によって人間関係を強固にする。しかし、田村は、あるいは詩はといった方がいいのか、詩は、交流ではない。交感なのだ。田村は、交感へ向けてことばを動かす。そのためにあらゆる既存の「交流」を破壊しようとする。
 田村が常に矛盾を利用し、その矛盾そのもの、矛盾をつくりあけている存在と、その存在形式を解体しようとするのは、交流ではなく、交感を理想としているからだ。交感は、未分化の領域でおきる。交感とは、互いの越境、侵入のことである。それが可能なのは、未分化の領域においてである。

 だが、これは現代においては非常に難しい仕事だ。すでに「物」が大量にあふさ、「物」を媒介にして「交流」のしっかり築き上げられているからである。「物」は「奴隷時代」とは変質してしまっている。

<物>に会いたくなったら
渋谷のパルコ通りへ行くことだ
銀山も葡萄畑もないかわりに
抽象的な情報市場だけはあふれていて
<物>の音と光りと色彩が沸きたっている

昨夜は<物>のために詩を読んで聞かせてやったのに
きみの反応といったら遠いところを見るギリシャ奴隷の
あかるい目の色そっくり

 この「物」の変質があるからこそ、田村は「奴隷」を引き合いに出してきたのである。「奴隷」という現代では否定されているものを通ることで、矛盾→解体→未分化という運動を描こうとしているのである。「奴隷礼賛」はあくまで、現代の「変質した物」を解体するための起爆剤である。

奴隷の歓び―田村隆一詩集
田村 隆一
河出書房新社

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