『田村隆一全詩集』を読む(49) | 詩はどこにあるか

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 「千の眼」。これは、逆説である。ヘイリー・ミラーのことばを田村は引用している。そのなかに「千の眼」ということばがでてくる。

子宮の天国と友情の天国との相違は、子宮のなかではひとは盲目だということである。
友だちはきみに、インダラ女神のように、
千の眼を与えてくれる
友だちを通して、無数の人生を経験する。
違った次元を見る。

 「千」は「無数の人生」の「無数」と同じである。「無数の人生」の「無数」はまた「違った次元」と同じ意味である。
 だが、その「千」「無数」はまた「ひとつ」でもある。「千」「無数」は出会いながら、そのひとつひとつを消していくのである。
 田村が、あるいはヘイリー・ミラーが「友だち」にあう。そのとき、田村は田村でなくなる。ヘイリー・ミラーはヘイリー・ミラーではなくなる。田村が消される。ヘイリー・ミラーが消える。いいかえると、「友だち」を通して、生まれ変わる。「友だち」に出会うたびに、田村は、ヘイリー・ミラーは生まれ変わりつづける。生まれ変わるから「別の人生」を、「違った次元」を見ることができる。見ているのは同じ「肉眼」である。
 「友だち」(他人)は、「目」を否定し、破壊し、「肉眼」をめざめさせる。「目」は盲目である。その「盲目」の「目」が叩き壊され、「肉眼」として生まれ変わりつづけるとき、その「ベクトル」としての運動は、ジグザグか一直線か、あるいは複雑な曲線化もしれないけれど、「ひとつ」である。「ひとつ」であるから「ジグザグ」「一直線」「曲線」と名付けることができる。

 それは、つながっている。

 矛盾しているようにだが、田村は、ヘイリー・ミラーは、次々に否定され、破壊され、生まれ変わることで、「千」と「無数」、「違った次元」とつながるのである。それはしかし、矛盾→止揚→発展という軌跡としての「ひとつ」ではない。拡大していく軌跡ではない。むしろ、縮小していく軌跡である。ゼロになっていく軌跡である。
 ゼロになったとき、「ひとつ」になる。
 --私には、矛盾した言語でしか語れないが、そういうものがあるのだ。
 この「ゼロ」を田村は、芭蕉と西脇順三郎を例に、「乞食」ということばで語ってもいる。

松尾芭蕉も西脇順三郎も
詩人になるためには乞食にならなければならないと本気で考え
日夜研鑽したヒーローだった
乞食になるために彼等がどれほど苦労したかわからなかったというエピソードを読むと
乞食が詩人になれるわけがないことがよく分かる

 「乞食」が詩人なのではなく、「乞食」ではなかったものが「乞食」になると詩人なのである。自己否定し、破壊し、「ゼロ」になる。その限りなく「ゼロ」に近い「場」をもとに生まれ変わるとき、それは「千」の「眼」の「肉眼」になって、世界をとらえ直す。その「肉眼」を通ったことばが詩である。
 この「ゼロ」を「無」と言い換えると、東洋哲学に近づきすぎるだろうか。

 だが、どんな哲学も、似た形態をとるのだろう。それをあらわすことばが、それぞれに違うけれど、どこかで共通するのだろう。



泉を求めて―田村隆一対話集 (1974年)
田村 隆一
毎日新聞社

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