「風」が登場する作品をもうひとつ紹介しよう。「別れのバラード」。
夕焼け空に
銀の馬車がとまっている
どの馬も
ひんまがった釘のよう
御者も街も みんな
とうに消えはて
馬車の中では
老いてしわくちゃな赤ん坊が
目をあけたまま
眠っている
風が遠くを
とうとうと流れている
この確かな深い沈黙だけが
なによりの贈物だ
夕焼けの空に
銀の馬車がとまっている
(谷内注、9行目「あけたまま」の最後の「ま」は原文はをどり文字)
不思議な静けさと温かさ。ふと、池井昌樹の詩を思い出した。ここには、池井の詩に通じる「放心」のようなものがある。世界に対して無防備である。世界と一体となって、世界を呼吸している。
老いてしわくちゃな赤ん坊が
目をあけたまま
眠っている
という3行は「流通言語」では矛盾である。老いていれば赤ん坊ではない。目をあけていれば眠ってはいない。けれど、鶴見はそれを矛盾としてではなく、自然なことととして描いている。
鶴見が書いている矛盾が矛盾でなくなるのは、人間が、時間を「長さ」で考えなくなる時である。どういうことも同時に起きてもいい。じっさい、こころのなかでは、いろんなことが一瞬のうちに、同時におきるではないか。こころの「枠」もとりはらって、ただ世界を呼吸する。(「放心」とは、こころの「枠」をとりはらうことである。)すると、その呼吸のなかへ、世界は一瞬のうちに入ってきて、世界そのものが鶴見になる。
だから、何が起きてもいい。
この瞬間も、鶴見は「風」を感じている。その「風」は「遠く」を流れている。けれど、その「遠く」を鶴見は「遠く」ではなく、間近に感じている。放心した瞬間、「時間」ガ消えるのはすでに書いたが、「空間」、その距離も消える。
「放心」とは、あらゆる「距離」を消してしまうことなのである。
どこまでが自分、どこまでが世界--そういう「区別」、区切りがなくなる。ただ「いのち」になる。
この「別れのバラード」は「死」を連想させる。最後の別れの想像させる。けれど、死がこんなふうにして赤ん坊に戻り、世界をみつめたまま、銀色の馬車の中で静かに眠ることなら、死は、少しもこわくはない。
巻末の「枇杷の花」もとても美しい詩だ。その1部の連だけを引用しておく。ぜひ、詩集を手にとって、全編を読んでください。
生命(いのち)には
なつかしい匂いがある
仄暗い光に似てはいないか
その綾なす糸
かなしみの方が 勝っている
詩集 つぶやくプリズム 〓見 忠良 沖積舎 このアイテムの詳細を見る |