『田村隆一全詩集』を読む(45) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 「レインコート」という詩。レインコートは「肉体」ではないが、その詩に私は「肉体」を感じる。 

真夏だというのに
レインコートは壁にぶらさがったまま凍りついている。
枯葉色の皺だらけの

なにもしないくせに
袖口だけは擦り切れていて
糸が二、三本垂れさがっていて

ポケットには
ウイスキーの小瓶を入れた形がまだ残っていて
どこを探したって小銭も出てこない

タバコの吸い殻が曲った釘みたいに
ポケットの底にへばりついているだけ

 レインコートの描写が、そのコートを着ていた人間の「くせ」を残しているからだろうか。そして、その人間の「くせ」、たとえば、ポケットにウイスキーの小瓶を入れている、タバコの吸殻を入れているという「くせ」を残しているから、それが人間に見えるのか。あるいは、そのコートを着ていた人間を覚えているから、かれの「くせ」がコートにのこっているように見えるのか。
 いったん、コートをそんなふうに描写したあと、ことばは少し動く。

それに
レインコートの持ち主だって分からない
ただ壁にぶらさがっていて
顔もなければ足もない

肉体はとっくに消滅して
心だけが枯葉色になって
真夏の部屋のなかでふるえている

 この微妙な変化の前にそっと挿入された「それに」とはいったい何だろうか。「それに/レインコートの持ち主だって分からない」と田村は書いているが、「それに」が指し示すはずの、先行する「わからない」ものが、そこにはない。
 書かれていない。
 書かれていないものを受けて、「それに/レインコートの持ち主だって分からない」と田村は書く。
 「それに」が指し示すもの、それは「分からない」ではないのだ。
 「レインコート」はすでに「レインコート」ではなくなっている、と田村は書いているのである。そこにあるのは「外形」は「レインコート」であるけれど、「肉眼」で見れば「レインコート」ではない。「レインコート」は「消滅」してしまっている。消滅してしまっているけれど、「目」にはそれが見える。
 その不思議さを、田村は書いている。
 「レインコート」は「レインコート」であることをやめてしまっている。それを着る人間も、どこかへ消滅してしまっていて、「持ち主」などというものは存在しない。そこには、不在を証明する残像だけがある。

 世界には、目に見えるものと、「肉眼」に見えるものとがある。
 田村のことばは、つねに、そのふたつの間を行き来する。そして、その間は、いつもはっきりと論理的に区別されているわけではない。両方の「間」(ま)で、ベクトルとなって動くだけである。
 そのベクトルがどこへ行くかは重要ではなく、それを実感できるかどうかが、重要だ。どこへ行くということがきまっていて(わかっていて)、ことばは動くのではないのだから。

ぼくはベッドに横たわったまま
ぶらさがっているレインコートの運命を考えてみることだってある
たぶん

痩せた男
安タバコを吸いつづけてきた細い指
肋骨の数をかぞえたほうが早い薄い胸のなかに
どんな思想がやどっていたというのか

 田村(ぼく)が想像しているのは「レインコートの運命」なのか、それとも「レインコートを着ていた男の運命」なのか。区別がつかない。いや、区別をつけないのだ。「区別がない」というのは「未分化」と同義である。
 「肉体」は、そういう「区別のない領域」にいつも存在する。「肉」はいつでも「未分化」の領域に根をおろしているのだ。
 「肉眼」はからだの奥、たとえば、手や指や舌や鼻が「未分化」の領域を通るとき「肉眼」そのものになるように、男は「レインコート」をきて、「世界」の「未分化」の領域で「肉体」となる。
 それは、単純にことばにできない。「流通している言語」ではとらえられない世界である。つまり、詩の世界である。
 
 途中の引用は省略する。
 この詩の最後の部分。「ぼく」は「レインコート」を「きみ」と呼び、告げている。

傘も持たず帽子もかぶらない
きみの犯罪の成功を祈るよ
どんなことがあってもぼくはきみの
アリバイを証明しないからね

変な言葉だ
不在証明の証明
さよなら レインコート

 アリバイ、不在証明は、そこにいなかったことを証明するということだが、その証明はいつでも「そこにいなかった」という形ではなく、「別のところにいた」という形でしか証明できない。「別のところにいた、したがって、ここにはいなかった」。それは「不在証明」というよりも、単なる「論理」の証明である。そういう「論理」があるということの証明にすぎないかもしれない。
 田村は、本能的に、そういう証明を拒絶している。「別のところにいた、したがって、ここにはいなかった」という「頭脳」の証明を拒絶している。そうではなく「肉体」の証明を探している。
 それは「ぼくはここにいる、したがって、ここにはいない」という矛盾した証明のことである。「ここ」で「ここ」を超越する。「ぼく」は「ぼく」であることを拒絶し、「ぼく」ではないものになる。だからこそ「ぼく」は存在する。
 そういう存在のあり方を、「レインコート」と「ぼく」との関係で書こうとしている。




毒杯―田村隆一詩集
田村 隆一
河出書房新社

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