「眠れ」には、田村が繰り返し書いていることばがある。
病院からの帰り道 武蔵野の雑木林のなか
を歩いた 大きな木に出会うとおれは立ちど
まってしまう癖がある おれの目には見えな
い地下の根のひろがりがそのときにかぎって
見えてくるのだ 肉眼とはいったいなにか
見えるものを見るのが「目」、見えないものを見るのが「肉眼」である。そのとき「肉」とは、深く意識とかかわっている。木の根についていえば、木の根が土のなかにあることを田村は知っている。それがどれだけのひろがりをもっているかは知らないが、その根はたしかに地下にある。その知識として知っているものを「肉眼」はすくいだすのである。田村の「肉体」のなかから。「肉体」のなかからすくいだし、それを見るのが「肉眼」ということになる。
「死線」の「線」から「泉」をすくいあげ、それを見てしまうのは、「頭脳」ではなく「肉眼」である。肉眼であるからこそ、それは「夜明け」か「日暮れ」を求める。具体的な時間を求める。そして、その時間も、実は田村の「肉体」のなかにある。
「指と手」には、次のことばがある。
困ったな つまりぼくが云いたいのは ほ
んとうにものを見るのには工夫がいる
眼だけひらいていたって見えるはずが
ないんだ
きみにとっちゃ針の穴かもしれないけど
ぼくにとっちゃ覗きからくりみたいな
ものだ しかも故障だらけでさ もの
が見たかったら 手を動かすんだ 指
をふるわせるんだ
すると 五本の指には五つの眼が 一本の
手には針の穴よりももっと小さい穴が
ついていると云うんですね
や きみにしては巧いことを云ったよ 五
本の指には五つの眼 それも眼だけじ
ゃない 鼻も耳も舌もついているんだ
よ 波に消えさる砂の上の文字も解読
できるし 猫が夢見る夢だってぼくの
手は見られるんだ 風の匂い 水の味
「手を動かす」「指を動かす」--それが見ることにつながる。すべては「肉体」をとおって、はじめて「肉体」のなかで見えてくる。
「肉体」が「混沌」の「場」である。混沌のなかから、「肉体」が現実をすくいとる。「肉体」のなかの存在と、世界のなかの存在が呼応し合うとき、目が「肉眼」にかわるのだ。
そして、そのとき、「肉体」と「精神」はまた融合したものになる。
波に消えさる砂の上の文字も解読できるし
この1行。「解読」ということば。
「解読」は単に「文字」を見ているのではない。「これは水であり、氷ではない」というふうに「見て」その形を読んでいるのではない。「文字」には「文字」をこえるものがある。それを把握することが「解読」でである。
この「解読」を「肉体」にあてはめると……。
目が見る、目が見た表面的(?)な存在を、鼻、耳、舌、手、指のなかをくぐらせ、鼻、耳、舌、手、指にもわかるようにすることを「解読」というのだ。全身で「解読」する。そのとき、目は、いまそこにある存在を自分の「肉体」の内部に見ることになる。
「肉体」の内部にあるものは、世界の「内部」にあるものと呼応する。
たとえば木。大きな木。それは地中に根をひろげている。その根は、人間でいえば、肉眼とつながっている鼻、耳、舌、手、指なのである。大地のなかに木が根をひろげていると「解読」するのは、目だけの力ではない。
砂上の会話―田村隆一対談 (1978年) 田村 隆一 実業之日本社 このアイテムの詳細を見る |