『田村隆一全詩集』を読む(40) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 『スコットランドの水車小屋』(1982年)。田村は空間と時間を旅する。詩集のタイトルにもなっている「スコットランドの水車小屋」。

ときおり驟雨があった
アラレが降ったかと思うとだしぬけに青空がひろがった
三月の厳寒の緑の野をぬけると
川がながれていた
産卵期には歌をうたいながら北海から鮭の群れがのぼってくる
その川のほとりに
パゴダ風の乾燥窯と水車小屋と水車があってアヒルが二羽
十七世紀の動力を見張っている 水車は
紀元前一世紀に西アジアに出現し それから
中国とギリシャへ そして中世のヨーロッパへ
水車も風車も自然の力を動力にかえた

 「水車」。その人間の発明した「動力」と鮭、とりわけアヒルの組み合わせが新鮮である。鮭もアヒルも人間のつくったものなどとは無関係である。「動力」がなんにかわろうが、鮭、アヒルにとって重要なのは、「動力」ではない。自然そのもの。川の流れそのものである。
 この絶対に融合することのない「動力」という人工物と鮭、アヒルという「いのち」の衝突。それが時間を浮き彫りにする。そして、空間をも浮き彫りにする。ここでの空間は、つまるところ、人間の移動する「空間」、つながりの「空間」である。そういうものも鮭、アヒルには無関係である。
 この世界には、人間と「無関係」なものがあるのだ。
 もちろん「無関係」といっても、人間は川を利用し、風を利用し、つまり自然を利用して「動力」を手に入れるという「関係」をつくりあげた。そうやってできた「時間」が「空間」を越えて、世界へひろがり、そのひろがる速度がまた「時間」をつくった。そういう時間・空間のなかに人間は生きている。
 そして、それを鮭、アヒルは「無関係」に見ている。

 人間のつくりだしたものは、自立する。そこに、たぶん問題がある、と田村は考えている。
 詩の中盤。

それから二百年後の進歩と発明の世界は
蒸気機関と電力が人間を支配し 水と風は死に
川には鮭ものぼってこない失われた鮭の歌
ロンドンのテムズもパリのセーヌの掘割も
世紀末の芸術家のように死んだふりをして
二十世紀には石油の大戦争が二つもあって
大量生産大量消費は大量殺戮の銅貨の表裏
どっちが出たって 人間に勝ち目はないさ

 「蒸気機関と電力が人間を支配し 水と風は死に」は強烈である。死んだのは「水と風」だけではなく、人間も死んだのである。「支配」しているのは人間ではなく、人間がつくりだした「動力」であり、それは自立してどんどん拡大する。「蒸気機関」から「電気」へと、急成長する。それはある意味で、「第二の自然」である。人間のおもわくなど気にしないで、つまり「無関係」に自立して成長する。拡大する。この「無関係」とは「非情」ということでもある。「非情」というのは人間を考慮しない、ということである。
 自然も人間を考慮しない。たとえば水車をみつめるアヒルは人間を考慮しない。「非情」である。しかし、自然の「非情」がユーモアであるのに対し、人間が創造した「動力」の「非情」はただ人間を破壊するだけである。
 こうした「動力」と人間の「無関係」を田村は批判している。

 後半。

ぼくたちが
歌をうたいながらパンを得たいなら
ただ一つ
自然と共存することだ ほんとうに
ぼくたちの都市が建設したいなら自然を豊かにすることだ
もう一度 自然の創造的な力をかりようじゃないか
水と風と太陽から

風見鶏さえ人間の手の形をしているプレストン・ミル
十七世紀の製粉所

 「ぼくたちの都市が建設したいなら自然を豊かにすることだ」。この逆説。この矛盾。いつでも「思想」は矛盾のなかにある。「共存」とは、「無関係」を否定することだ。「無関係」を破壊し、「関係」に戻る。
 「自然から創造的な力をかりる」と田村は書いているが、これは「かりる」というよりも、人間が「自然」にもどる、立ち返るということだろう。いま、もっているものを捨てる。「動力」の自立を捨てる。

 田村は、そういうことを夢見ている。

 --こういう詩の読み方は、あまりにも「意味」に支配されすぎているだろうか。たぶん、支配されすぎている。楽しい読み方ではない。
 そうは思うけれど、こういうふうにしか、私にはこの作品を読むことができない。
 初期の作品は、ことばが自立していた。ことばが意味を拒絶して自立していた。
 この時期の田村のことばは、一方で「意味」を見据え、「意味」と戦っている。そして、それが「意味」に溺れてしまわないように、必死になっている。旅をして、アヒルや鮭を発見し、驟雨を発見し、「無関係」なもので、世界をかきまぜようとしている。「無関係」がそのままいきいきしている「世界」を取り戻そうとしている。
 私には、そんなふうに感じられる。




泉を求めて―田村隆一対話集 (1974年)
田村 隆一
毎日新聞社

このアイテムの詳細を見る